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見方考え方の違い

ファッション雑誌を読み「これ可愛い!同じの欲しい!着たい!」って考える人を拝見し軽く衝撃を受けました。

確かにこの格好可愛いなって思うことはあります。でもそれが可愛いから同じのを着たいとは思わないんですよね。「可愛い」と「だから着る」が素直に結び付かないんです。

だからといって否定しているわけではないです。可愛いから着るっていうのは純粋に素敵だなと思います。
自分の中になかった考え方だったので衝撃を受けたのです。ハッとさせられました。そしてそれが嬉しい。視野が広がった気がして。視界が開けるような感覚でした。


ちなみに私のファッション雑誌の読み方は
この格好は世間的にありなんだな。自分でもこういうのは着れそうか。絵描くときにキャラに着せたい。キャラの服考えるときの参考になるな。
という風に考えながら読みます。

人によって見方や考え方が違うのが本当に面白いです。

書きなぐり

たまにさ、「あ、死にたい」って思うけど死ぬ気全くないのなんだろうな。
なんか自分と他人の格差を目の当たりにするとそうなる感じする。
死を怖がるくせに死を楽なものと考えるのはどうして?




他人ってすごいよねえ。
自分と比べるともはや全他人が尊敬の対象なのですよね。だってすごくね?自分が出来ないことやってのけるんだぜ?自分がやらないだけだとしても、やっている他人はすごいじゃん?




優しい人は報われて欲しいので、優しさを見かけたらその人の幸せを念じます。
私は優しくされたいから優しくするのですよ。いつだって自分中心さ。
なのによく自分が見当たらなくなるんだよ。おかしいねえ。
自己中なのに自分がないって悲惨だね。




多分自分はポジティブなほう。

幸せ不幸せ

みんな幸せでいれればいいのに。

でも不幸のない人生なんてそれこそ不幸せだ。

悲しいな。
幸せ不幸せ難しいな。

人はどうしてこうも。

初めから何もなかったら、もしくは一斉に何もなくなったら、なんて考えてしまう。

優しい人が、愛ある人が、幸せでいますように。
個人の優しさの範囲が、愛の範囲が、広がりますように。
優しすぎて疲れた人が休めますように。

綺麗なものが尊くて、汚いものを排除するつもりはない。
ああ、難しい。

「好き」について

定期的に「好き」について考えてしまう。

「好き」という感情はどうしてこんなに嬉しいのだろう。楽しいのだろう。幸せなのだろう。

私は猫が好きだ。見かけるだけで和んでしまう。
私は犬も好きだ。中型犬をわしゃわしゃ撫で回す夢がある。
私は作品が好きだ。作品は色々あって色々な人がいることや色々な考えがあることや色々な感情を知れるから。
好きは嬉しい楽しい幸せだ。

しかし好きだからこそ悲しみも深まってしまうことがある。


「好き」はどうやって決まるのだろう。育ってきた環境が全てなのだろうか。個人の中に好きになってしまう何かがもともとあるのだろうか。
全ての人が好きなものはあるのだろうか。あるとすればどうして好きになったのだろうか。


誰かが「〇〇が好き」と言い続けたら、私は〇〇を見たときにその誰かを思い出す。ふとしたたった一回の「〇〇が好き」を覚えているときも、誰かを思い出すだろう。

嫌いはなかなか言う機会がないせいか、あまり覚えてなかったりする。
嫌いを聞くより好きを聞くほうが楽しい。
しかし嫌いを言いたくなるときはある。(これは何故なんだろう)
嫌いを言える場も必要な気がするが、嫌いのたまり場は嫌な感じがする。するとやはり、好きの割合を多めにして少しの嫌いを日常で吐くほうがいいのだろうか。


好きを増やす人生というのも、なかなか楽しそうだ。

「すごい」が溢れてる

世の中すごいことばかりですよね。

まずありとあらゆるものの存在がすごい。なぜ存在してるんだ。すごい。

私の目の前の携帯。こんな便利なものを誰かが作ったんですよ、すごい。
ネットもどうやって繋がってんだ、すげえな。

誰かの作品を見る。こんなものを作れるなんてすごい。才能やセンスもあるだろうが、作らなきゃこれは生まれなかった。



一人一人が一つ一つがすべてが「すごい」を含有してる。
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