もうすぐ一年が終わり、新年がやってきますね。そこで初詣するときに何をお願いするか考えてみました。
毎年ぼやっと決めて何となくでお願いしてたのがなんか不誠実というか、「その程度なのか」って感じが自分的に嫌だったので。
願い事関連のお話で、「流れ星が流れてる一瞬のうちに3回も願い事が言えるなら、それだけそのことについて考えていて、一生懸命頑張っているということ。そんな願い事ならいつか叶います」っていう感じの言葉をネットで見かけて(子供相談室の回答だったらしい?)、それが心に残っているからそう思ったんだと思います。
色々考えた結果、「掲げた目標をやり遂げる力が欲しい」かなと。
人生どうなりたいか考えたとき、「幸せになりたい」って思ったんですよね
。行動できない自分に、だらける自分に嫌な気持ちになるのがつらくて、もうそんな気持ちになりたくないと(何度もそうなってしまうのも含めて)、幸せになりたいと。
じゃあどうすれば幸せになれるか考えたら、掲げた目標たちを達成できれば絶対幸せだと思ったんです。
一年のうちに目標を○個達成できれば願いは叶ったとしようとか考えてました。
で、目標はどうやったら達成できるようになるか考えた。達成がうまくなるか、目標立てがうまくなるかかなって。達成がうまくなるってどういうことかなって考えて、達成できたときとできなかったときのことを例を出して考えてみて、って感じに色々考えて。
そうして色々考えまくって行き着く先はだいたい「何のために生きているんだろう」という疑問。
そんでまたノートに書き殴りながら考えて、
人生の目的は「楽しく(喜んで)生きていくこと」
目標は「よくしようと考える喜びを持つこと」
になりました。
(書き殴っている最中に、「あれ?目的と目標ってなんか違った気がするぞ?」と思い浮かんで調べた結果目的と目標に分かれました)
どうやったら生きていけるか考え、「喜びがあれば生きていける」「痛み(身体的なものも精神的なもの(悲しみとか苦しみとか)を含めて)がなければと思うが、痛みが全くない世界は難しすぎる。積もっていく痛みが喜びに変われば生きていける」って思いました。
じゃあ喜びとは何か。
例えば褒められると嬉しいけど、次また褒められなかったときに痛みになるなって。
他者の必要ない喜びは?
自己満足。なかなか難しい。
すげーうまいもん食った喜びは?でもそれも次も、もっともっととかなる。
次を求めなくていい喜びは?
永続的な喜び。
改善の喜びは?喜びを求めてつらくなっても、改善することが喜びならもう一度すればいい。よくならなかったら?よくしようと考える喜び?それならよくならなくても問題なし?でも考えるのも大変よ?でも考えずによくないことの痛みを抱えるままなら、考えて少しは納得、痛みが喜びに変わるなら良いのか。もっとよくしようが喜びなら、もっともっとと望んでも平気か?可能性が世にありすぎて閉塞されない?人に褒められるには相手ありき。よくしようと考えることには痛みがあるだろうけど、先は閉ざされていないんだよな。
っていう思考の流れでした。
全てをよくしようと考えると大変なので、痛みをよくしようと考えようかなと。
早寝早起きできない痛みや大掃除しようと思ってるのにやってない痛みとか、現状よくないと思ってることをよくしようと考える。
「よくしようと考える喜び」…そう思うと、できない痛みの現状はあるけれど、考えてどうにかしようと思っている今の自分も幸せなんだなって感じました。
考えても自分が行動しない故に一向に改善されなくてつらくなったりしたけど、それでも考えて足掻いているうちは止まってはいないんだなと。痛みが和らぐなと。
「こうしよう」って思うことって忘れちゃったりもする。
今回考えたことも忘れてしまったとしても、私はよくしようと考えるんだろうなあと思います。
あと考えが変わったりもするしね。
始まりは初詣の願い事考えることからだったけど、最終的に人生の目的目標まで考えてしまったよ。
で、そういえば願い事って人に話すとよくないとか言うじゃん?
ネットに転がってるの色々見たけど、「目標は人に話すと満足してしまって実現しにくくなる」っていうのが身に覚えもあって話すのはよくないかもなーって思いました。
一番いいなと思ったのが「神様に話すことを軽々しく他者に話すのは…」っていう考えで、「神様と自分だけのお話」って思うと特別感あってわくわくするなーと!(と思うのがまさに軽々しいのかもしれないのだけど)
なので冒頭で願い事決めたけど、変えようかなと思います。ついでにもっと具体的で一年で済みそうな内容にしよう。でも長期的な願い事で毎年お願いするのもいいかも。
神様に何を話そうかなー!一年後にそれがどうなったかも報告したいよね!
わくわくしてきたぜ!
(2017年 70記事目)