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シバ/観測所

嘘をついてはいけない
しかしながら
目に見え耳に聞こえる事実は
現実には程遠い



「あのー、砂漠は初めてですか」

ヒューストンの声はやはり若い。大戦のことを話した口振りから30歳以上だと思ったが、声だけならば10代の少年のようだった。

「ええ、初めてです。砂には本当に困りますね」

嘘だ。

兵器に対する規制調査の一環でここへも来たことがある。砂漠の観測所はここの他に4局あったが、そのうち3局に行った。

砂漠にテントを張って寝泊まりしたこともある。

「そうですよねー」

ヒューストンは困ったように笑った。

「ヒューストンさんは、ずっとこちらで生活を?」
「長くはないんですけどね。観測所が閉鎖になるってゆうんで、その片付けで派遣されたのが最初です。気付いたら取り残されて、いま一人でここに居るんですよ」

男が何を言ったのか、俺は理解できなかった。

『取り残されて』?

それが本当なら何故俺達に助けを求めない?

「はは、なるほど。それはご苦労されましたね」

何かの比喩表現だと解釈して俺は笑ってやった。ヒューストンも破顔した。

この男が分からない。

何かが食い違う。

ちぐはぐさ。

危険地観測所は、終戦を迎えてからは軍事利用が規制されて予算が付かず、殆んどが閉鎖を余儀なくされた。

ここも閉鎖したとばかり思っていたがこの男がここで暮らしているから本当のところがどうか分からなくなる。事実上は閉鎖しているのだろうが資料や設備はまだ管理されている。

閉鎖したのに働いている人間。

彼は一体誰なんだ?

動力設備が正常に運転していることが丸で異常なことのように、薄汚れた内装の上を清浄な冷風が撫でている。

何かが食い違う。

この男がメンテナンスしているのだろうか。研究所とは無関係なような顔をしているが、無関係な筈がないのは俺がよく知っている。こんな場所に施設を見付けるだけでも苦労するのに、この男は設備を利用して生活しているのだ。

ヒューストンはある扉の前で足を止めた。

「あの、こちらが居住区です」
「おじゃまします」
「水を用意しますね」

居住区は他の場所と色彩が変えられており多少は過ごしやすく工夫されている。壁紙が貼られて模様を作り、アンティークな家具は自然な木目調のもので、そして壁には額縁に収まった淡い色調の絵画が掛けられている。

ヒューストンは使い込まれた戸棚からガラスの容器を出して部屋の奥の方へ入って行った。

それを見送ってから俺はレルムを見る。

「何があったんだ」

俺が尋ねると、レルムは俺の目をじっと見返してから首を傾げた。加えて「なんのことですか」と答えた。外見では純真な子供のように見えるから問い質すのが悪い気がする。

そういう仕草、どこで覚えるんだろうな。

「叫び声が聞こえたから俺はここに来たんだ。叫んだのは本当にあの男か?」

「はい。叫んだのはヒューストンさんです」とレルムは言った。その声に戸惑いも怯えもないから俺にはその状況が少しも伝わってこない。

あんな声、普通じゃない。

それがレルムには分からない。

「僕の腕を掴んだんです」
「うん。それで?」
「それで、ヒューストンさんは叫んだんです」
「お前が何かしたのか」
「いいえ、何も」

そんな訳がない、とは言えなかった。

レルムが、『腕を触って叫んだ』と言うのならばそれは事実なのだろう。レルムも嘘は吐くが目的のない嘘は吐かない。人間に限りなく近いレルムの、それは超え難い人間との境界だった。

「何か分かったら、教えるんだよ」

俺が諭すように言うと、レルムは「分かったこと、あります」と答えた。

それが嘘ではないという確信がある。

でも俺はレルムの言葉が現実を表現するのに十分だとも思っていないから、レルムのことや表情から分かることよりもヒューストンの言動を思い起こした。初めて会った時、初めて話した時、ここまで案内する間、それがどんなだったか。

レルムが次の言葉を述べる前にヒューストンが現れた。

「お待たせしました」

ヒューストンは大きめのボトルに水をなみなみと入れて持って来た。少し重たそうに抱えるように持っている。そしてテーブルにグラスを二つ置いて、「どうぞ」と穏やかに勧めた。

この水は毒か?

きっと違う。

「レルム、飲むか?」

俺が尋ねるとレルムは首を横に振った。

「ありがとうございます。いただきます」と言って、俺はコップに水を注いで飲んだ。冷たくて臭みのない綺麗な水だった。

「資料なんですけど、見て行かれますか」

俺が水を飲むのを見てからヒューストンは小さな声で尋ねた。

小さな声。

心細い声。

ああ、そうか。

「はい。ぜひ」

俺が答えるのを聞いて、ヒューストンは「少し休んだらご案内します」と言って微笑んだ。

ああ、そうか。

俺はこの男にある違和感の原因に漸く気付いた。
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シバ/ヒューストン

それは言葉よりも真実味があるだろう
嘘や虚飾よりも巧みな偽計
事実や願望よりも魅力ある現実
だから詐欺師の微笑を見てはいけない



安っぽい演劇にあるような湿気た走り方をしたなと自分で思った。

レルムはぽつんと立っていた。それを見て、レルムが一人で建物に立ち入ってから暫くして聞こえた断末魔がレルムのものではなかったことは確認できた。

「あ、先生」

なんでこいつは冷静なんだ。

ああ、機械だからか。

「声が、聞こえたから、来た」

焦ったよ。お前が叫んだのかと思ったよ。お前が死ぬのかと思ったよ。怖かった。助けてやろうと思った。だから走って駆け付けた。とは言わなかった。

レルムは俺を見て「人が居たんですよ」とだけ答えた。

そうは言われても。

近くをぐるりと見回しても誰もいない。

「声を上げたのはその人です」

冷静にそんな解説されてもね。俺にとって重要なヒントには思えないのだけれども、レルムが余りに真剣に説明したから「そうですか」と答えるしかなかった。

「それで、どこに行ったんだろうね。その人は」
「向こうの方です」
「向こう?」

レルムの視線を追うと、そこに、人影があった。

「あの人です」

レルムに目配せすると、レルムはなんとなくそう言うのだろうなと思ったことをそのまま言った。

向こうは無言だ。

「こんにちは。突然お邪魔して申し訳ない。水か食料がないかなと思ったんですけど」

向こうはそれを聞いて、ちらりとレルムを見てからまた黙った。

「レルム。何もないようだから、帰ろうか」

とても警戒させていることだけは痛いくらい伝わったから、俺としてはこの不可解な男を刺激しないことが最優先に思えた。テンマの手掛かりはここにもないと思って諦めるしかない。

「……」

しかしレルムは男のことをじっと見ていてその場を離れる気配がない。

「行くよ」、そう言おうとした時、男が口を開いた。

「水、あります」

若々しい声だった。

「あのー、ようこそ。人に会うのは久し振りで、それで、驚いて。えーと、それで、すみません、水、あります。まー、水しかないとも言うんだけど。幸いここには水だけはありますよ」

男はそう言って微笑んだ。

「助かります」

他になんて言うべきか、どこまで説明するべきか、俺にはまだ判断できない。

男が歩き出したので、俺とレルムは付いて歩いた。

「なんでこんな辺鄙なところに?」
「研究の一環です」
「そうですか。えーと、あ、すみません、お名前伺いましたっけ」
「申し遅れました。クロスと言います」
「はあ、クロスさん。私はヒューストンと言います。またなんの研究ですか、こんな砂漠で」

分かってて聞いてんのか、こいつは。

探られているのか、俺達は。

「研究と言っても、義肢について、ちょっと」

ヒューストンは興味深そうに「へえ」と頷いた。レルムをちらっと見ると、特に不審な動きもしていないので安心して嘘を吐くことができた。

「あー、じゃあ、目的地はここですか」
「やはりここが“観測所”ですか」
「そーですよ。こんな有様ですけど、かつては義手も義足も造っていた研究所がここです。『観測所』ってゆーのは大戦中の頃の名前ですけど、あのー、もしかして、その頃の研究資料をお探しですか」

しまった。

名前が変わったのか?

「実を言うと、その頃にここで働いていた知人がいまして。彼が言うには、『最高の義肢が、ここにある』、と。それでどうしても来たくなったんです。思い付きですよ」
「なーるほど」

ヒューストンは何度も頷いて見せた。

「水と食料も欲しかったのは本当ですけど、もし、当時の研究資料が残っていれば、ぜひそれも見たいんですが」

ヒューストンが立ち止まることはない。

「ここの資料は原則公開されてますから当時の資料ってゆっても大したもんじゃないんですよね。『観測所』にあったものが欲しいなら、それはもうないですよ。持って行かれちゃって」
「誰に?」
「さあ。強盗団にでも奪われたのかも」

『強盗団』?

それは強ち嘘でもないのかもしれない。

ドアノブにあった、血。

廃墟みたいな建物。

研究者も今目の前にいる一人だけ。

「こんな場所で強盗ですか」

ヒューストンは曖昧に笑うだけで肯定も否定もしなかった。



【ヒューストン】
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シバ/感情ロボット

人倫を惑わす砂漠の冥鬼
それは膨張しゆく恐怖心


危険地観測所の外観は昔とほとんど変わりなかった。砂漠の中に現れるそれは巨大なコンクリートの塊でしかなく、外からでは中を窺い知ることができない。

「これですか」

レルムが呟いた。

「そうだよ。外階段を上がって、一番近い扉から入れる筈だ」
「あそこですね」

レルムは建物の一点を見た。砂が目に入って眼球の周りがザラザラしている俺にはとても前を真っ直ぐ見ることはできないけれど、レルムが言うのだから正しいだろう。

階段も扉も錆びないようにコーティングされているからか、思ったよりは劣化していなかった。砂に紛れる淡い黄色はあの頃と同じだ。

扉は施錠されていなかった。ドアノブを回すと少しの金属音だけですんなり開く。

「鍵はないんですか」

レルムは扉をじっと見て言った。

「俺が居た時はあったけどなあ。なくなったのかもな」
「なんでですか」
「建物を管理する主体がなくなったからだろう」
「誰か死んだんですか」
「……気になるのか?」

レルムは言いにくそうに間を開けてから答えた。

「なんだか、怖いですよ」

俺はそれを聞いた時、呆気に取られた。何と答えるべきか分からない。

何を言った?

レルムが、『怖い』?

「怖いのか、この扉が」
「これは飽くまで推察ですけど。たぶん中は荒らされています。この扉、随分長い間、誰にも開けられていないようです」
「何故それが分かる」
「ここに、血が」

レルムが指差した場所には確かに血らしき“赤”が付着していた。ドアノブを回した俺の手から乾燥したそれがパラパラと零れ落ちた。赤い塗料とも見える。でも、これは。

「なんかあったのか」

レルムが『血』だと言ったのだ。

それはもう、この“赤”が『血』か否かを議論する段階ではないということだ。

血が着くなんて、普通じゃない。

レルムは不安そうに周囲を見回した。

レルムの抱いている感情らしきものが、俺には明らかに不安だと分かったから、この血よりもそのことの方が驚くべきことだった。レルムのアンドロイドらしい発言と人間臭い発言に惑わされる。

いいんだよ、こんな場所が襲われることくらい。

お前の腕を造ったのがこの施設だっただけで彼らは特許も取らずにその情報を世界に提供していたのだから。価値のある物なんて無かっただろう。

無頼漢も長くは留まっていないに違いない。

本当は分かっている。

レルムを完成させたのはテンマだ。

テンマ以外の誰が欠けても関係なくレルムはレルムであり続ける。レルムに必要なのはテンマの生み出した“感情回路”だけだ。世界最高峰の検算処理速度も滑らかに駆動する身体も大金を出せば揃えられる。

世界にたったの6機だけ。

廃棄された3機のアンドロイド。パトロンに引き渡された2機のアンドロイド。そして幻の6機目。

あれらは人間を模していない。

テンマは人間を模倣するアンドロイドではなく人間そのものを生み出そうとしたのだ。それは世界に6機だけのテンマの子供。

レルムを人間の子供と錯覚することがある。

レルムが機械であると実感する時もある。

「中に入ります」

レルムは表情を引き締めて言った。

「先生、少しここで待っていてください」

俺はそれに「任せます」と答えた。

任せますよ。暑いし、目的の施設は廃墟と化しているしね。だからここで大人しく待ちますよ。

俺は建物に少し入って涼を取れる場所に腰を下ろした。

危険はもうないだろう。太陽光と地熱で半永久的に発電しているから空調も利いているし水も作っているから、正しくここはオアシスと呼ばれていた。

しかし長居する理由はない。

ここは四方を砂漠に囲まれた陸の孤島。

例えば俺がここで死んだって誰にも気付かれることがない。

その時、声が聞こえた。

レルムの声か?

身体を建物の内部へ向けて耳を澄ませてみる。

誰かの声。

会話している。

一人はレルムか?

それとも、二人とも。

「うわあああああああぁ!!!!!?!?」

絶叫だった。断末魔だった。死ぬ程のショックを受けた時に人間が発する声だ。

レルムじゃない。

人間だ。

俺は立ち上がっていた。

「レルム!!!」

レルムだったらどうしよう。

俺はそんなことを考えた。


【感情ロボット】

シバ/至上の可憐

「今度は誰に会うんですか」
「危険地観測所の研究員」
「なあに、それ」
「お前の手足を造った人だよ」
「ふうん」



乾いた大地に生える草木は奇跡的だと思われる。砂が纏わり付いてどこもかしこもザラザラするこの場所は精密機械を造るには不適切だろう。そこに生まれた危険地観測所もやはり奇跡的だ。

技術者はそこをオアシスと比喩した。

「オアシスって、何?」

レルムは無邪気に笑って尋ねた。

「砂漠の湧水」

俺の答えにレルムは真顔で頷いた。

水を飲む私の気持ちはそれを不思議そうに眺める君には理解できないだろう。汗が滲む傍から蒸発していくのを忌々しく思う俺のことは理解できないだろう。

レルムはそれを記憶し学習するものだ。

だから『今』は、それを知らない。

体内に侵入した異物のほとんどを自動的に除去できる彼の仕組みは人間より余程完璧だ。だからこそ人と器械とは違うことに気付く。

IMROが求めたのは宇宙の真理だった。人類の到達すべき場所。それは完全なるもの。

レルムがIMROの成果であるならば、テンマはIMROを肯定したことになる。俺はそうであることを望んでいた。テンマがIMROに所属していたことを肯定することを望んでいた。レルムが完全なる生命体であるならば、俺は過去の罪を顧みることもなかった。

レルムは、どうだ。

「その服、似合いますよ」

レルムは自分で言っておきながら照れたのか、えへへ、と笑った。

俺はこの地方の服を着ていた。要らないと言ったレルムの分も買って無理に着せた。風通しのよい生地で仕立てられていて、身体全体を直射日光から守るような造りになっている。

合理的な衣服だ。

しかし旅行者の気分で気恥ずかしくもある。

レルムもそう感じたのだろうか。

気の所為ではないだろう。レルムは日に日に表情が豊かになっている。俺の固い表情を学んでいる訳はないだろうから、街の人々との些細な会話や観察から学習しているらしい。

言葉では表現できない。

レルムは人間と同じなのか。

果たして未熟で不完全なるものなのか。

例えばレルムの人格にモデルがいるのなら忍耐と根気で実現できるプログラムもある。しかしこの子供は、これは、そんなものとは全く違う。次元が違う。

俺とレルムの何が違うのか。

俺にはもう分からない。

不可解。

「僕は、似合う?」

もし彼のその頬が赤くなっていたら、きっと俺は誤認した。

「似合うよ」

これはテンマが生み出した彼の子供だ。至上の可憐。造花の野花。長い時間の中で止まってしまった俺の内部にある何かを突き動かす衝動。テンマだけが俺の唯一だったのに。

レルムに代わるものは、もう無い。

レルムはきっと明日にでも喉の渇きを覚えてしまう。オアシスの意味を理解してしまう。その土地の服を必要ないと言っていた昨日のレルムは何処にも居ないように、明日には新しい人間性を身に付けるだろうから。

「ほら、出発するよ」

俺がそう言ってヘルメットを被るとレルムは砂を払って立ち上がった。砂はさらさらと落ちていく。

テンマ、何処に居るんだよ。

お前はなんてものを創り出したんだ。

レルムの人間らしさは俺達の歴史を否定するものだ。辿り着くべき場所を全く逆の方向へ導く存在だ。レルムの完璧なまでの不完全性がお前の意図するものなのか。

俺の心が動くんだ。

お前だけに反応すべき俺の心は今はレルムにもしっかり動かされる。

レルムの笑顔がきらきら煌めくことが恐い。

そう感じる自分の心が恐い。

「早く着くといいですね」

レルムが言った。

「ああ」

俺が答えた時、レルムが笑っていたらいいな、と思った。


【至上の可憐】

シバ/砂の町

砂の嵐
荒野を支配する野放図な覇者


レルムがふらふら歩くのは、実際に人間の子供がそうするような再現性がある。

「レルム。行くよ」

俺が呼ぶと名残り惜しそうにその場を離れるのだから、彼の内面に潜む感情の存在を、誰が否定できるだろうか。複雑に高度に細密に計算される脳幹回路から離れたところに『感情』があっても不思議はない。

「ここは面白い町ですね。ぶかぶかの夏服ともこもこの冬服が一緒に売ってありました」
「そんなものを見てたのか」

俺が呆れて言うとレルムはうふふと笑った。

「ここら一帯は昼間は暑くても夜はとても冷えるんですよ。だから旅の人が困らないように、こうして昼の服と夜の服を売っているの」
「先生は、いま暑いですか」

ああ。

このアンドロイドには、体温がないのか。

燃料が凍らない限り、オイルが蒸発してしまわない限り、レルムにとっては暑いも寒いも関係ないのだ。

「そうだね。いまは、暑いかな」

俺はそんな風にぼんやり答えた。レルムは自身が機械であることを卑下しない。人間の中に暮らしながら、かといって人間と同化することもない。

レルムがこうも人らしく見えるのは、何が原因なのか。

それはやはり彼に感情らしきものがあるからだ。

「1日電車に乗っただけなのに、全然違う世界に来たみたいですね」
「そうだね」
「先生、服買わないんですか?」
「長く居る訳ではないからね」

レルムは「ふうん」と詰まらなそうに返事した。町をきょろきょろ見回すところはとてもアンドロイドには見えない。

「お前は」
「はい?」
「服が欲しいのかな」

旅の記念にその土地の衣服を来て食事をするというのは月並みだけれど悪くないアイデアだろう。レルムは食事をしないのだから、服だけでも買ってやろうかと俺は思った。

改めて店のディスプレイを見ると、観光客向けなのか態とらしく飾られた子供用のものもあるようだ。

「いくつか、好きなのを買おうか」

俺がそう言ってレルムを見ると、レルムはなんだか不思議そうに首を傾げて俺を見ていた。ガラスの目がじっと俺を見ている。

「僕には、必要ないものですよ」

レルムは然も当然と言わんばかりにそう言った。

ああ、そうだった。

お前には体温がなかった。

どうしてだろう。初めて会った時から全く代わり映えしない容姿は丸で人間味がなくて、触れれば冷たいところが多いのがレルムなのに、俺はお前を人だと思ってしまう。レルムはジキルの残した子供だと思ってしまう。

「そうか」

俺はそれだけ言った。

レルムは機嫌よさそうににこやかに笑った。

シバ/機械からのプロポーズ

水底の詩
それは耳を澄ます者にだけ届く声


レルムに新しいオイルを差してやると嬉しそうに歯車が滑った。そんなことをしなくてもレルムの中は正常に保たれる機能があるのだし、外気に触れると却って良くないのだろうけれど、レルムが笑うのだからそれが悪いとは思わない。

「ありがとうございます」

レルムはニコニコしている。拭いてやったばかりの髪は発色よく黄金色に艶めいて綺麗だ。

「俺は機械は専門ではないから、アレクシエルに色々教えてもらえて良かったね」
「うん」

レルムは大きく頷いた。

彼が犬なら毛並みの良い尻尾をゆらゆらと揺らしているところだろう。

「テンマは生きているんだなあ」

例えばテンマが死んだと聞かされたら、俺はそれなりに納得したのではないだろうか。レルムが来た時も、俺は彼の『頼み事』を聞いてやる一方で、テンマはもう死んでいてレルムはその形見なのだと感じていた。

テンマを追う旅の先に、彼の墓場があるような気がする。

「そうとも限らないか」

レルムは眠い時の子供がそうするようにゆっくり瞬きしていた。その重い目を持ち上げて、俺を見る。

「博士が死んだら、プッペが教えてくれます」
「どうやって?」
「分かりません。でも、そういう決まりですから」

彼らの幾つかの『決まり』は、テンマの意思に他ならない。レルムの言うそれを聞くと俺は少し嬉しくなる。

回路屋のクルト、人形師のノクス、レルムを構成するものに出会う度にテンマと再開した気になる。もう接点はないと思ってなんでも屋として荒稼ぎしている時はもうテンマは死んだだろうと思っていた。だから今はとても気分が良い。

「先生」

レルムが俺を呼ぶ。

初めて会った時より幾らか親しみを込めた声音で。

「博士が死んでも、僕と居てください」

それは丸切りプロポーズだ。

俺はレルムの頭を撫でた。冷たい感触にはまだ慣れない。

「考えておく」

俺が言うとレルムは不服そうな顔をした。人間と全く区別できないその表情は掌の感触と乖離して脳を混乱させる。

「本当に、考えておいて下さいね」
「うん」

答えはもう、分かっている。

俺も、ずっと君と暮らせたらって思っているよ。

さらさらした髪ごと頭を撫でてやると、レルムは気持ち良さそうに瞳を閉じた。


【機械からのプロポーズ】

ルシフェル ノクス/魂の声

人形が好きだった。綺麗なものが。

自分の造った人形に命を吹き込むことができるなら、そう思っていた時にテンマに会った。人形が瞬きをするのを見てから私はテンマにアンドロイドのモデルを提供することに決めた。

人形が私を見たのだ。

テンマは『Der Zwillingsengel』を見た時にとても嬉しそうに感謝を告げた。「綺麗だね」って言ったから、私は自分が褒められたみたいに思った。

幻の6体目。

それは世界の何処かにいるという少女のアンドロイド。

レルムが6体目だとも思ったけど、レルムの見た目は男の子だったから違うんだと思う。あれならプッペの方が女の子らしい。

レルムは完璧。

レルムを見ると人間なんてアンドロイドに滅ぼされてしまえばいいのにと思う。そして創造者だけが生きる。美しいものとそれを造る者。

「あの子欲しいと思った?」

私が聞くとアレクシエルは笑った。珍しく声に出して如何にも楽しげに笑った。

「欲しいね、喉から手が出る程。しかし私が彼と居ても価値がない」
「『価値』なんて何処にも無いよ」
「君の描く絵には価値が在る」

そういうこと、当たり前みたいに言っちゃダメでしょ。

「あんなの布切れだよ」
「いいや、芸術だ」
「価値なんて、奇抜さとか希少さとかに言葉付けただけでしょ」
「君には好きな人はいるかい?」
「なんで」
「その好きな人のことを考えなさい」

アレクシエルはそこそこ真剣にそう言ったので私は大人しく従った。好きな人のことを思い浮かべてみる。

うん、浮かんだ。

「その人は、世界にただ一人しかいない?」
「うん」
「しかし本当は違う」
「なんで」
「世界にその人が5人居ても君は好きになるだろう」

なるかな。

「なるかも」

アレクシエルは私の頭に手を置いた。撫でるとか叩くとかじゃなくてただ置いた。じんわり温かさが広がる。

「誰にも価値が在る。全てのものに価値が在る」
「平均点出したらみんな価値なくなったりして」
「良いのだ、それで」
「良くはないよ」
「それでも誰かが価値を見出す」
「誰か?」
「私は君が人形屋ではなくても君の作品を気に入った。価値と価値観が寄り添って世界が成り立っているんだ」

それっていいな。

なんだかたまらなく人形を造りたい。


【魂の声】


レルムを欲しがったアレクシエル。なんでも手に入れる力を持つのにそうしなかったアレクシエル。楽しげに笑ったアレクシエル。

「絵を描きたそうな顔をしているね」

逮捕されて拘置されて20日で外に出された。人形を造れば前科は付けないと言われたから、私は美しく綺麗な双子の人形である『Der Zwillingsengel』を造って遣った。

それから私は人形を造れなくなってしまった。

「君の人形は、素晴らしかった」

素晴らしかった?

レルムは確かに最高に素晴しいアンドロイドだ。でも私の造った『Der Zwillingsengel』は偉い人間に強要されて造った最低の作品だった。

だから奪った。

そして私は魂を失った。

魂のない人形なんて芸術じゃない。どんなに綺麗なものでもそれは違う。魂を込められないなら人形なんて造る意味がない。価値がない。

レルムに命を吹き込んだのはテンマであって私じゃない。

綺麗なだけの人形は却って作り物っぽくて少しも生命の息吹というものを感じられなかった。

「どうした」

私は魂を感じられた気がした。アレクシエルと居ると、そんな気がするのだ。人形と向き合うとまた見失ってしまうのだけど、今はまた人形を造れる気がする。

「ちょっと出る」
「何処へ?」
「どこって言うか、ここを出るってこと」
「『ここを出る』」

アレクシエルは抑揚なく呟いた。

「ごめん。じゃあね」

人の心を動かすのは人の心だ。だから作者の魂が込められたものだけが芸術として存在できる。

私は再び魂を得た。

人形を造りたい。アレクシエルの魂に似た色の人形を。そしてアレクシエルに見せたい。

「待て。契約が違う」

なんだっけそれ。

「契約?」
「そうだ。ここから出て芸術活動を行うのは契約に反する」
「なんで」
「そういう契約だからだよ」
「なにそれ」
「モデルが必要ならここへ呼びなさい」

なに、それ。

「別に造ったもの外で売ったりしないよ」
「そういう問題ではない」

全然意味がわからない。

「じゃあもうその契約終わりにしてよ」
「契約期間はあと49週間残っている」
「え? そんなに待てないよ」
「君がサインした契約書だってあるんだ。君には履行する義務がある」

なんか、こわい。

「そういうのわかんない」
「必要なものは全てこちらで用意する。ここから出なければ好きな部屋を使って構わない。不満があるなら聞いておく。何がいけないのかな」

人形は、あの部屋じゃないと造れない。

「変だよ。なんか怖い」
「君が契約違反しようとするからだ」
「違反って、大袈裟だよね」
「違反は違反だ」
「ここを出るだけじゃん」
「それが一番の問題だ」

アレクシエルは怒っていた。何があっても怒ることはなかったのに。

「また戻って来るよ」
「その保証がない」
「じゃあ、一筆書くから」
「君はそのサインした契約を破ろうとしているのだろう?」
「絶対戻るから」
「その保証がない。ここに居れば良いだろう」

なに、これ。

「ここに居なさい」
「なんで」
「居て欲しいからだ」

なに言ってんの。

「出て行かないで欲しい」

アレクシエルは顔を真っ赤にして言った。そばかすのある白い肌はわかりやすく赤に染まっている。

「それって、プロポーズみたい」

愛してる、って。

「悪いかい」

アレクシエルは耳まで真っ赤にしていた。なんだか目も充血していて血走っている。静かで優雅で柔らかくて穏やかな人間離れしたアレクシエルが、丸で普通の男の様に見える。

「え?」

大体なんでこんな話になったんだっけ?

「契約なんてどうでも良いから、君にはまだここに居て欲しい」
「うん、いいよ」

だから戻って来るって言ってんじゃん。

早く人形を造りたい。

私とアレクシエルは暫く見つめ合った。アレクシエルは愛を込めて見つめたと言うより呆然と私を眺めて居た様な感じだったのでロマンチックではなかった。

「でもさ、ここじゃ人形造れないじゃん」
「『人形』?」
「必ず戻って来るからさ、ちょっとだけ待っててよ」
「『人形』を造るのか?」
「うん」
「本当にまた戻って来るのかい?」
「約束のチューしてもいいよ」

アレクシエルは笑った。声を上げて盛大に。

「それは君が戻って来た時にお願いするよ」

アレクシエルはそう言って私の頭を撫でた。私の魂が喜んでわくわく震えた気がした。

シバ

そうか、この少年は。

10歳までに造った23体の人形で全世界の芸術を席捲したという、あの少女だったのか。少年だと思っていたから思いもしなかった。

その人形屋は余りにも精巧な人形を生み出したので人身売買の疑いを掛けられ店には業務停止命令が下された。終いに少女が生存権の侵害容疑で逮捕されてからは人形造りは行われなくなったと聞いたが、まさかこんなところで会えるとは驚きだ。

「テンマを捜してるの?」

ノクスは呆れた様な面持ちで尋ねた。

テンマを捜しているのかと聞かれれば、その通りだ。私たちはテンマに会いたくて旅している。

「知っているんですか」

この旅はこれで終わりになる。テンマが今何をしているのかを知り、テンマに会いに行く。レルムは壊れて世界を遺伝子の世界に戻す。IMROの全てをテンマに渡して俺はまた消える。

世界が終わるなら、テンマの手で。

本当にそうだろうか?

テンマにレルムを渡して私はまた消えてそれで世界が元通りになって、それで私の気持ちは収まるだろうか。アンドロイドの世界が終われば前と同じ生活に戻るだけ。問題はない。それが私の望んだことだろうか。

「知ってるよ」

ノクスは言った。

教えてくれ!

テンマの居場所を!

「テンマの、」

テンマには敵わなかった。ジキルとハイドじゃないんだ、私たちは。私はテンマに追い付く為にここに来て、そしてこれからも。

「先生?」

レルムは不安そうに私を見た。

レルムは何年もずっと変わらない姿をしている。成長しないし老いることはない。その瞳が濁ることはない。髪は付け換えることができるだけで伸びることがない。

私はまだレルムと旅をしたいと思った。

「私たちはテンマを捜している」
「そうだよ」
「もう少し、一緒に捜しても良いかな」

レルムはにこにこ笑った。

「勿論です、先生」

いつかは手放さなければいけないと思う。しかしそれは今ではない。

「すみません。もう暫くは、自分たちで捜してみますよ」

私が言うとノクスは嬉しそうに頷いた。少年にしか見えない人形屋の彼女が人間と一緒に絵を描いているのは、なんだか素晴らしいなあと思った。

シバ

レルムがテンマの作品だと知っているのはアンドロイドの製作に実際にかかわった何よりの証拠だ。それどころかノクスはレルムを自らの作品だと言う。

「その子は『der Zwillingsengel』だもん。もう一体はヘンリーが持ってるから、お願いすれば見せてくれると思うけど」
「『双子』……?」
「テンマから聞いてないの?」

ノクスは心外だと言うように顔を顰めた。

「私はミスター?アレンのコレクションを見てやっとこのレルムがテンマ=モデルだということを確信しました。しかし失礼ながら何故貴方がご存知なんですか」

アンドロイドにモデル?

初耳だ、そんな話は。

「とにかくその子の見た目は“あの双子”なの。テンマは芸術を理解する人だったから貸してあげたんだよ」
「お言葉ですが、レルムが造られたのは約20年前だと推測しています。貴方の言葉を信じると時系列が狂ってしまう」
「『双子』は6歳の時に作った人形だよ」

はい?

「失礼、ノクスは、それで25歳なんですよ」

呆気に取られるとはこのことだ。アンドロイドのコレクションを見るだけの積もりが、製作者に会えるとは思わぬ収穫だ。見た目のモデルについては考えもしなかっただけに驚きが大きい。

「レルムの、モデル」
「輪郭と鼻のバランス、目と額の形、そして唇。鑑定士に見せたいくらいだよ。完全に『双子』だし、そうでなければもう人形作りは一生やらないと約束してもいい」
「テンマに会ったんですか」

ノクスは私が彼女の作品よりもテンマに興味があることを察知して咎めるような視線を向けた。しかし私にはそんなことに構っている余裕はない。

「テンマは人間嫌いだよ」

ノクスは囁いた。

「……知ってます」
「ただ、二人だけ好きな人も居たみたい」

それは、知りたい。

知るべきことの様な気がする。

「教えてください」

ノクスはレルムを見た。じっと見ている間、レルムも微動だにせずノクスを真っ直ぐ見返していた。ふと、レルムの瞳の色がノクスのそれと全く同じ色だと気付いた。綺麗な色だった。

シバ

その子どもは一見するとただの貧しい少年のようだったが、話してみるとそうではないらしいことが分かる。子ども特有の無邪気で残酷な態度の中に、蒙昧なところはない。

外見だけが、惜しいと思う。

「ルシフェル=ノクスは芸術家でね。少し風変わりなところがあるが、作品は素晴らしい」
「芸術家ですか。ミスター・アレンはそういった方面にも造詣が深いんですね」

私は外交用の笑みを浮かべて言った。

「乙女心はわかってないけどね」

ノクスの険のある言葉に、アレンは無言で応える。アレン程の由緒ある貴族にこの様に発言できるのは恐らく世界中でノクスだけに違いない。未だに私のことを警戒しているこの屋敷の執事は、しかしノクスの無礼を咎めようとはしないのだから、彼らには相当の信頼関係があるのだろう。

「だいたい油の臭いがするっていうのもおかしいんだよね。そんな顔料使ってないんだからさ」
「油の臭いなんてしませんよ」
「ほらね」

レルムが透かさず反応するとノクスは勝ち誇ったように身体を反らしてアレンを見た。アレンはやはり口では何も答えずに眉根を寄せるだけだ。

「芸術家と言うと、どのような分野なんですか?」

私が尋ねると、アレンは「絵描きですよ」と澄まして答えた。

「昔は人形を作ってたんだよ。でもあんまり売れなくなったから、他のことして稼いでんの」
「簡単に言いますね」
「簡単じゃないよ」

ノクスは機嫌を損ねたのかぶっきらぼうに言った。

「すみません。私も研究者なので、そういったことのご苦労はお察しします」

慌てて弁明してもノクスはまだ不機嫌そうだ。

「気に病むことはない」

どうしようかと言葉を探していると、アレンが鷹揚にそう言った。ノクスの方を見るとやはり不機嫌そうな顔をしているから気に病まない訳には行かない。

「いいえ。すみません、心無いことを言いました」

丁寧に詫びる積もりで繰り返し謝罪すると、今度はアレンが不愉快そうに顔を顰めた。

なんだか不味いことになった。

「絵画と言いましたが、人形作りと通じるものがあるんですか」

極力笑顔を心掛けてノクスに話し掛けると、少し機嫌を直してくれたらしく勝ち気に答えてくれた。

「人形以上の芸術なんてないもん。人形ぐらい綺麗で恐ろしいものはないよ。絵で同じことはできないけど、人形作りの筆でも絵は描けるでしょう?」

片方の眉を持ち上げる様はアレンにそっくりだったが、とても当人同士には言えず、心の中でそっと笑う。

「なるほど。一度その人形も拝見してみたいです」

それは強ちお世辞でもなかった。

しかしノクスはきょとんと動きを止めた。

「あの、何か?」

私が恐々そう聞くと、ノクスは然もありなんと首を傾げた。そして言った。

「その子がそうじゃないの?」

『その子』だって?

ノクスの視線を辿ると、そこにはレルムしかいない。

「テンマの子どもでしょう?」

何故、どういうことだ。

「でしょ?」

ノクスはレルムを頭から爪先までさっと見てから、念を押すようにそう言った。アレンを見ると、彼も目を見開いていて、当事者のレルムでさえノクスの言葉に驚いているようだった。

一番驚いているのは、私だ。

アレクシエル

アンドロイドをコレクションしている部屋を出るとノクスが現れた。奥にいる2人を認めると「お客さん?」と興味を示している。

「そうだ。大事なお客様だ」
「こんにちは」
「…こんにちは」

私のことなど構わずにノクスはクロス氏らに声を掛けた。クロス氏は怪訝がってノクスを見たけれど、ノクスに害意や敵意が無いことは直ぐに察したようだった。

「アンドロイド見に来たの?」

ノクスはクロス氏を見上げて言った。

「そうですよ」
「そっちの子は?」
「僕はレルム」

レルムはほんのり笑んだ。

ノクスはそれをじっと見てから不安そうに眉根を寄せた。

「アレクシエルに売られちゃうの?」

ノクスの瞳には涙が浮かんだ。

「売られる?」
「悪いこと、したの?」
「悪いことなんてしてないよ」
「ほんと?」

レルムは困惑しているのかクロス氏を見た。

「彼らはお客様だと言っただろう」
「でも、」
「失礼を詫びなさい」
「でも、」
「“でも”なんだ?」

ノクスは萎縮して私を見た。

「あの子、アレクシエルの好みでしょう?」

はい?

「……」

クロス氏は目を丸くしていた。しかし私も負けず劣らず瞠目していた。

「…売られたのかと思って」
「……好みだから?」
「……うん」

私をなんだと思っているんだ。

「……」

くすりと笑い声が聞こえた。

クロス氏は目を細めて私を見た。

シバ

部屋は少し寒かった。アンドロイドを管理するためだろう。

アンドロイドは芸術的な均整を以て立ち並んでいる。

多数のアンドロイドを集めているコレクターは世界中にいる。テンマがアンドロイドを“完成”させてからは特に増えた。

アレクシエルはそれとは違う。

ここには名のある高価なものから無名でも良作だろうと言えるものまである。

アレクシエルは目が利く。

これらのコレクションは彼が単に自慢するためにミーハーで集めた訳ではないのだろう。ここにあるアンドロイド自体が何よりの証拠になる。

アレクシエルは芸術を愛する。

彼にはアンドロイドも芸術だ。

コレクターが多くなったとは言え、アンドロイドはそれ自体が高額で維持費も掛かる。ミーハーだとしても他の意義があるとしても、コレクターに成るのはアレクシエルのような資産家や高額所得者に限られる。

アレクシエルのようなコレクターは貴重だ。

アレクシエルはアンドロイドの着衣を撫でた。

芸術品に触れるように。

アレクシエルは『アマチュア』と呼ばれている。本職に負けない審美眼を持つことへの皮肉だ。

「素晴らしいですね」

俺はアレクシエルに言った。あまり気の利いた褒め言葉ではないが他に色々と言うことも憚られた。

俺はアンドロイドに詳しいわけではない。プロが認めた『アマチュア』に敵う訳がない。

安っぽい褒め言葉だと思われても知ったかぶるよりはましだ。

俺は半ば自嘲した。

しかしアレクシエルは俺を見て口元を緩めた。返答はないが俺の言葉をそのままの意味で受け取って貰えたらしい。

『素晴らしい』。

在り来りだけれど。

レルムを見ると部屋に入った時と変わらない場所に立っていた。ずっとそうしていたらしい。ただ視線をさ迷わせている。

ローリーのモーテルではキョロキョロ嗅ぎ回っていたのに嫌に大人しい。

アレクシエルもレルムを見ている俺に気付いてか歩み寄りながら同じように視線をやった。訝るとまではいかないがそれは専門家が観察するような目付きだ。

“専門家”だなんて。

彼は『アマチュア』なのに。

アレクシエルは言った。洗練された歩き方は足音がなく、それは思いの外俺のほんの直ぐ近くで囁かれた。

「どう感じているのだろうね」

アレクシエルは必ず俺の期待に応えてくれるだろうと改めて思った。

レルム

応接室で少し待っていると、やがて思ったよりはラフな格好の男性が現れて挨拶した。痩身で肌は白いけれど、先生のように不健康そうには見えない。

「こんにちは」

先生が立ち上がって事務的に言うと、アレクシエルも同じように返した。僕は愛想笑いを浮かべて挨拶した。

「それで、」
「アンドロイドを見せて下さい」
「アンドロイド?」
「はい。アンドロイドをコレクションするのが趣味だとか?」
「そうだが…」
「是非、拝見させて下さい」

アレクシエルは目を細めた。

「…もしや、貴方もアンドロイドなのかい?」

先生は少しの間その言葉を吟味していた。まさか先生がアンドロイドだとは、思ったこともなかった。先生を見ながらぽかんとしてしまう。

「違います」

勿体振った割に当然の答えだったのでアレクシエルは笑いを漏らした。笑うととても優しそうに見える。

「申し訳ない。少々不躾でした」
「いいえ。光栄です」
「光栄? 機械だと言われるのが?」
「アンドロイドは優秀ですから」

アレクシエルは笑みを深めた。

「貴方は正しい」

アレクシエルは立ち上がると「ご案内致します」と言った。その声は楽しそうに弾んでいた。癖のある髪が跳ねた。

分かりやすい造りの屋敷だけれど、広いから歩くと苦労する。

「こちらからどうぞ」

ルイという人に鍵を開かせて、大きな扉が僕たちを招き入れた。ふわりと風が吹き込んでくる。

中には無数のロボットがいた。

先生は注意深くそれらを順に確認していく。アレクシエルは僕たちに構わず好きにロボットを見ているようだ。

「他にも?」

先生が尋ねるとアレクシエルは「ありますよ」と気さくに答えた。アンドロイドに関しては表情が柔らかくなる人らしい。

2人は似ている。

先生は博士にだけ反応する。

開かれた扉に、2人は息を飲んだ。先生はちょっと口が開いてしまっている。

「芸術と呼ぶには、余りに完璧過ぎる」

アレクシエルは呟いた。

彼の言葉がアンドロイドの容姿だけを指して言われた訳ではないだろうと僕は思った。

先程のロボットが所狭しと並ぶ倉庫のような部屋と違い、こちらは見せることを目的とした展示室のようだ。型も大きさも違うアンドロイドたちが整然と立っている。

一人のアンドロイドと目が合って、僕は少し怖くなった。

アレクシエル

ノクスが来て今日で5週間になる。丁度きっちり5週間の、35日間。時間にすると840時間より少し長いくらい。

「君はこの一週間で何回お風呂に入った?」

油の臭いが染み付いているぞ、とまでは言わなかった。

「……」

無視か。

この家で私のことを無視する人間はいない、このノクスを除けば。

シェフも7人の女中も執事とその見習いも私の命令には絶対に従う。そういう契約だからだ。

時々現れる庭師や家具屋や美術商も私を無視したりはしない。それが仕事の内だからだ。

「一度くらいは入ったのかい?」
「……」
「ルシフェル・ノクス、」
「え? なに?」
「…聞こえていなかったのかい?」
「え? なに? はっきり言って」
「……風呂を用意するから入りなさい」

ノクスは食事を口に運ぶのを止めた。そして大袈裟に不快そうに表情を歪める。

「くさいって意味?」

その通りだ。

「ただ風呂を勧めただけだ」
「くさいって意味?」
「…そうは言っていない」
「くさいって言うなら入るけど、」
「臭い」

汗臭くはないが、どうしても油の臭いは鼻に付く。

「……アレクシエルってデリカシーがないよね」

ノクスは息を吐くとフォークを置いた。その指先は絵の具で汚れている。

「君が言わせたからだ」
「それでも否定して欲しいのが乙女心だよ」
「…そうか」

ノクスは時々このようなことを言う。男に乙女心が有るのか無いのかは私には分からないが、少なくともこのノクスには存在するようだった。

彼は画家であり彫刻家だ。

多くの芸術家と同様に、ノクスもまた少し変わったところのある人間だった。

「ご馳走さま」

そう言ってノクスは雑に立ち上がった。

私が再び「お風呂に入りなさい」と言って執事のルイに目配せすると、ルイは軽く会釈してノクスを風呂場へ案内したようだった。

「はあ」

溜め息も出る。

しかし私はその少年が嫌いという訳でもなかった。

レルム

心優しい主人が経営するモーテルのあった街を出ると、外では酪農地や小さな家が建っていて長閑かだった。僕たちを乗せた車だけがその中をぽぽぽと突っ切って動いているので奇妙だ。

「どこへ向かっているんですか」
「アレクシエル=アレンの家」
「アレン?」
「『アマチュア』だよ」

アマチュア?

先生は道の遠くの方に焦点を合わせている。上り坂になっているし道も曲がりくねっているのでそう奥までは見通せないけれど。

仲の良かった人なのかな?

なんとなくそう思った。

ローリー

それは本物のクルト様だった。

「クルト様…」

クルト様は笑った。その口元に覗く八重歯は昔と全く同じものだった。釣られてこちらも笑ってしまう笑顔。

「こんにちは」

どうしてだろう。

どうしてまだ好きなのだろう。

クルト様はモーテルの客を全て追い払ってしまって、ただ笑ってお金だけ置いて行った。自分のことよりテンマという人のことをよく話して、帳簿に書かれた連絡先は出鱈目だった。

しかしその連絡先が真実だったとしても僕からは連絡できなかっただろうとも思う。

正しくても間違いでも同じことだ。

僕は馬鹿だから正しいことが分からなくて、だから正しいものに憧れてしまう。

クルト様なら間違いの間違いをさえ正して正しくしてしまえる。僕みたいに振り回されたりはしない。

「…お久しぶりです」
「うん」

僕のところへ来たのは、正しいことだったのですか?

「……」

傘を差し出された。

「風邪を引くよ」

ああ、そういえば。

そんなこと、僕は忘れていた。濡れた石畳の街路と霧のようなのに重く冷たい水滴を順に目で追って、雨というものの存在を思い出した。

「すみません、」

アパートメントから出るのに傘を忘れたのだ。すぐ近くに出るだけの用事だったのでまあいいかとドアを潜ったらクルト様が突然現れたのだ。

傘を取りに戻ろうと背を向けると、クルト様に腕を掴まれた。

「近くに外出の予定なら私も付いて行くから、一緒に入ってよ」
「いえ、でもクルト様が濡れると困ります」
「今は君と離れたくない」

クルト様の目は僕を捕まえた。

この熱い手でなら僕を本当に奪ってしまえそうだった。

この人はあの手紙がどうなったか知っているのだろうか。僕が読んでしまったことは知らないに違いない。読ませるつもりなら僕に渡してくれていた筈だし、出鱈目の連絡先を教えて音信不通にしたりはしなかった筈だ。

胸が締まって痛くなった。

「すみません。失礼します…」

クルト様は笑って招き入れた。

どうしてここへ来たんですか?

どうしてここへ来たんですか?

どうして僕に会いに来たんですか?

どうして僕の手を持って離さないんですか?

雑踏の中で僕たちはすっかりただの通行人になっていて、それがひどく心地好かった。誰も僕たちが客と従業員だとは思わない。

もっと心の通じた関係に見えたらいいな。

歩いている間に聞きたいことが頭の中をぐるぐると巡っていたけれど、もしかしたら握られた掌から伝わってしまったかもしれないとかもっと気の利いた話題にしようとかくだらないことも一緒に巡っていた。

「気にしないの?」

クルト様が言った。

それが何を意味するのかは分からなかった。

「……」

クルト様は手を強く握り直して少し僕を見ていたけど、僕が何も返事しないのを確認するとそのまま歩き続けた。

気にしてます、本当は。

だって好きなんです。

意識せずにはいられない。

『機械の回路にはゼロかイチしかない。複雑に場合分けして学習機能を付けたとしても、やはりその中ではゼロかイチかを絶えず判断しているに過ぎない。だからある記憶を忘れたいと思えば忘れてしまうし、憶えておきたいと思えば忘れない』

テンマさんが言っていた。

人間には、忘れたくても忘れられない記憶がある。

それはあなたです。

あなたが好きだからです。

「何を買うの?」

手が離されると冷たい空気が流れ込んできた。僕の手はクルト様を求めてさ迷った。

市場の屋根の中へ入ると、クルト様はカチリと傘を閉じた。僕がいたのとは反対側の肩がじっとりと濡れている。

僕はほとんども濡れてなかった。

馬鹿だから気付かなかった。

「僕を奪って下さい」
「え?」
「僕はもうモーテルの経営者でも従業員でもないんです。あなたがそうさせたんです。僕をちゃんと奪って下さい」

僕はあなたを追い出したりしなかった。

それが僕にできる意思表示だった。

あなたはもしかしたら僕の気付かないところでもっと沢山の信号を送っていて、あの手紙みたいに隠れたところで待っているのだろうか。

鮮明に、或は色褪せながら。

「……」

僕との出会いが間違いならクルト様には分かっただろうし、再開など望むべくもなかった。

ゼロかイチなら、イチ。

僕は手を差し出した。

「一緒に暮らして下さい」

クルト様は笑った。大きな声で笑った。市場を通る人が僕たちを振り返ったけれど、みんな直ぐに通り過ぎて行った。

「行くよ」

手が温かくて、気持ちいい。

もう離さないで下さい。

クルト様にとって僕がイチならいい。会った時、話した時、手に触れた時、ゼロからイチになったらいい。

クルト様の口元から八重歯が見えた。

クルト

久しぶりのその街は以前と変わらず賑わっていて、霧のような雨が纏わり付くのも構わず多くの人が行きかう。黒や紺の傘に隠れた彼らの表情はどれも華やいで見えた。

経済的に豊かな土地は好きだ。

目的地に到着して、俺は茫然とした。見上げる先には骨格だけ残された建物がシートに包まれ、改装されているらしかった。かつてボロボロの家具や硬くなった絨毯のあった安いモーテルは、何か別のものに生まれ変わろうとしている。俺の知らない何かになろうとしている。

潰れたのか。

「ここに用?」

話しかけてきたのは中年の男だった。隣には同年代の女を連れている。 工事関係者ではないらしいけれど、薄暗い路地裏の古びたモーテル前で立ち尽くす男を不審に思ったのだろう。

「……」

用があったと言えば、そうだろう。

あった、と言えば。

「ここの馴染みだったのかな? 残念だけど、このモーテルは最近潰れてしまって、私も店主とは仲がよかったんだけどね」
「ローリーは、従業員もみんな他のホテルへ紹介して、最後は一人で切り盛りしていて。私も残念だわ」

そう仕向けたのは、俺です。

「やっぱり」

俺が笑って言うと、二人も悲しげに笑った。

「あまり濡れると風邪を引くわよ。残念だけれど、他の宿にしなさい」
「そうだね。ここの雨は霧みたいに軽いのに、放っておくと体の芯まで冷やされる」

男の方は肩を竦ませて笑った。

「ありがとう。でももう少し、思い出したいことがあるので、」
「そうかい。では、気を付けて」

会釈すると二人は濡れた石畳の上を歩いていった。表通りは明るくて、俺はそこに素直には向かっていけなかった。

ハイドの寄越したメッセージに、こんなことは書いていなかった。しかし知っていたに違いない。どういうつもりかは知らないが、俺の気持ちもローリーの気持ちも察した上でこんなことをするなら、相当の悪趣味ではないか。 

悪趣味なのは、前からか。

『君も知っているとあるモーテルに泊まりました。本名で泊まるのはオモテで成功している証拠でしょうね。ジキルとまた仕事をする折には、ぜひ私も呼んで下さい。そういえば、随分と可愛らしいオーナーでした。独り身なのは、誰か決まった人がいるからでしょうか?』

あの手紙、見られたのだろうか。

主人を失った建物は寂しげに雨に濡れていた。

ローリー

子どもが届けてくれたその手紙を僕は何度も読み返した。なんの前触れもなくやってきたその手紙は、間違いなくあの人の書いたものだった。

『いつでも追い出して良かったんだよ』

あれは本当に脅迫だっただろうか。僕の心を知った上での確信的な提案だっただろうか。彼は僕のモーテルを腐らすことを本当になんとも思わなかったのだろうか。

それとも、何か他に?

僕には分からない。

僕は静かに泣きたくなった。

あの人なら八重歯を見せて笑うだろうけど。

『笑顔をありがとう』

『美味しい食事をありがとう』

笑うだけ笑って、食べるだけ食べて、あの人は騒々しい世界へ消えてしまった。騒々しくて煌びやかでハイテクで知的な、僕のいるところとは全く違う世界。

お金は無理に使ってもみたけど減った気がしなかったよ。

『君の優しい手に触れたかった』

僕はあの人に触れたことがある。廊下で倒れていたから死んでしまったのかと思って思わず触れた。

『こんなにも心地好いラボなら、一生いても良かった』

ずっと一緒にいたかったのは僕の方。隣で難しいことをするあなたをそっと支える人間でありたかった。

好きだからです。

好きだったからです。

客でも契約先でもなんでもない関係ならあの人は見向きもしなかったかもしれないけど、あの人がどこかへ消える前に僕が我が儘を言えるくらいには自由な関係ならよかった。違う出会い方をしたかった。

好きだからです。

『好きだと言ったら、』

『その告白を許してもらえていたら、』

思い出したら泣けるくらい、不毛だと分かっているのに、好きです。

こんな手紙にして風化させるくらいなら、ちゃんと言ってくれたらよかったのに。好きだと言われたら僕は取り乱してしまっただろうけど、互いを喰い潰して別れた今よりはもっと遥かに素晴らしい現在があっただろう。

告白を許さなかったのは僕?

あの人?

仕事の関係だから?

僕は手紙を机に置いて、泣いた。溢れる涙が手紙を汚さないようにと思ったけど、視界が悪すぎて防ぐ手段が浮かばなかった。

あの時に感じた些細な隔たりなんてさっさと破ればよかった。

そうすれば泣かなくて済んだかも。

やっぱり泣いたかも。

好きです。好きでした。

涙で見えなくなった手紙の最後の一文を震える手でなぞる。あの人の気持ちを探るように、辿るように、八重歯を思い出しながら。

好きだと言っていたら、その告白が許されていたら。

きっと僕は泣く。

あの人は笑う。

そんなハッピーエンドの僕たちを夢想して文字をなぞる。優しくなんてない僕の荒れた指先で。

『君を奪っても良かったですか?』

「……はい…」

嗚咽に混ざって絞り出した僕の声は静かな部屋を回って僕にだけ届いて、それに僕はまた泣いた。

レルム

部屋に入るとクロスが難しい顔をして座っていた。

「もういいのか?」

やや顔を上げて言う。

秩序立って並べられた文字が敷き詰められたたくさんのレポート用紙を前にしてベッドの上で立てた片膝に頭を乗せている様子は疲れて見える。

「暗号、どうなったんですか?」

横から覗き見ると作業は一通り終えてあるらしい。

「これはもう大丈夫」
「よかったですね」
「ああ。でもまた別の暗号も解読しないと」
「楽しみですね」
「……」

クロスはゆっくりレポート用紙の上に倒れ伏した。紙が音を立てるのも構わない。そして腕を枕にして横を向いた彼の目が僕を見た。

「先生はクルトさんを知っていたんですか?」

目が伏せられる。

「彼と何を話した?」

その声は溜め息のように掠れて疲労感が滲んでいた。髪にも肌にも艶があってそうは見えないけれど、その動作を見るとやはり疲れているのかもしれない。

僕はそのまま眠っていきそうな彼の邪魔にならないように静かに話す。

「クルトさんのことを、少し」
「…ああ、そう」
「寝てないんですか」
「…で、なんだって…?」
「寝てないんですかって、」
「そうじゃない。クルトを、なんて言ってたんだ」
「すみません。以前ここに長期滞在していて、それなりに仲も良かったみたいです」
「……」
「2人がまた、会えたらいいんですけど…」
「……」

クロスは反応しなかった。

「先生…?」

寝ているらしい。寝息もなくて死んでいるようにも見える彼の、唯一背中が上下に揺れるのを僕はしばらく眺めた。

この人は生きている。

「……」

毛布をかけても無反応だけれど呼吸だけは確かにしていてそれだけでひどく安心できる。

僕が目を瞑る時、彼も同じように僕の死を恐れるのだろうか。それがただの一時停止だとしてもメンテナンスのために僕を殺すことを躊躇うことはあるのだろうか。

或は何も感じないのだろうか。

「先生、」

僕は、生きてみたかった。

クロスの髪に、そして後頭部から首、背中に触れていく。生きている人間の温度ある身体に触れていく。柔らかい肌。揺れる背中。

「止めろ!」

びくりと震えたクロスが勢いをつけて僕の腕を払った。その目が強く僕を睨んだから怖かった。

「すみません。ただ、」
「いや、すまない。君か。レルムか」
「はい。すみません」

クロスは困ったように笑った。何かを隠すようにごまかして笑った。

「これ、君が?」

毛布を触りながら言う。

「少し寝ていましたので」
「そう。…ありがとう」
「いいえ」

クロスは身体を起こした。レポート用紙がかさかさと音を立てたけれど不快ではなかった。

「クルトね。連絡取ってみようか」
「取れるんですか!?」
「さあ、分からないけど、今はまともな仕事の方も安全で高い報酬をくれるからね」

パソコンを起動すると色々と作業を始めた。毛布は肩にかかったままで、ひっそりとした雰囲気が彼自身の存在そのものまで消えてしまいそうだった。

「先生、」

あなたより先には死なない。

横に腰を下ろすとベッドが軋む。名前とこの重みが存在証明で、あとはみんな僕を否定する。

「君は休みなさい」

僕はそれを聞いて、眠った。

シバ

暗号が一つ解けた。

もっと言えば暗号の仕組みそのものについて知ることができた。

慣れない数式なので紙に書いて確かめたが、方法自体にきっと間違いはない。得た数字を手帳に書き写していく。自分でもそうと分かるような細々としてせせこましい字で。

気分はいい。

アンドロイドを造るのにジキルが人の手を借りたという話しは聞いたことがない。IMROやwreckにいた頃の親しい人間に頼んでいたなら俺にも少しは心当たりがある。

回路屋のクルトはIMROにいたEPだ。

人工生命に興味がなかった連中は多い。

IMROの方針に従うまでもなく人工生命の研究に傾向してその成果を惜しみ無く提供していたのは設立後期に入所した一部の研究者で、初期からいる研究者や非公式な手伝いであったEPはジキルのアンドロイドの研究の方が余程好きらしいことには気付いていた。

そのためのwreckだ。

ジキルだってレポートをまとめてスポンサーを得るまでの間にそこで研究していた。

世界的に有名な科学者や技術者でジキルから個人的な依頼を受けるような人間。それも口堅くて金に汚くない人間。

数学者とか、配管工とか。

不自然に示された地名に彼らの足跡があるならそれだけレルムにかけられた謎掛けへの答えに近付ける。

そうして、あれを、迎えに行こう。
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