智仁に会いたくなって衝動的に智仁の勤める役所の方へ歩いて行った。昼を過ぎた街は人通りが多くて人の孤独を埋めてくれるような気がする。或いは孤独を強調するのもこの人混みなのだけれど。
そう言えば、この道を抜けるとミクのアパートメントだ。ミクの。
そんな風に思っていると道の向こうから現れるのはミクであるのが道理なのだけれど、そこに居たのはバイアスだった。
視線を地面に定めて足早に歩く。
「おい」
その低いどすの利いた声は私に向かっているらしい。13歳の少女に向けられるべき声としてはやや恫喝的でありすぎると思うけれど、更に問題なのは、彼の手癖の悪さだろう。
私の腕はすれ違い様にバイアスに掴まれていた。
二の腕を優に一周するバイアスの掌はけっこうな強さで私の腕を圧迫している。
怖い。
はっきり言って、通報したい。
「無視するな」
「睨むからじゃん。こわいよ」
バイアスは鼻で笑った。
「睨んでいるのはお前だろう」
仰る通りです。
私ははっきりとバイアスを睨み上げていた。「私はあなたを睨んでいますよ」と伝わるように睨み上げているのだから、思いが通じたので却って安心した。
「腕掴むからじゃん。こわいよ」
「離したら逃げるような顔をしているからだ」
「逃げないよ」
私はすかさず言った。
バイアスは少し迷ったようだけれどこれ以上の言い争いは無駄だと思ったのか腕を放してくれた。
「ここで何をしているんだ。ミクは居ない筈だ」
「アルは?」
なんでミクなんだ。
私は最初から智仁だけを信じて智仁だけを求めてきた。
「私が探して来よう」
「え。いいの」
「お前は役所に入れないのにどうする積もりだったんだ」
バイアスは早速歩き始めた。
コンパスが長いから私は小走りで付いて行くしかない。
役所に着くとバイアスはまた私の腕を掴んだ。半ば引き摺るように役所の中に入り、警備員に会釈する隙も与えてはくれず、小さめの応接室に私を放り込んだ。
「ここに居ろ。絶対に外に出るな。誰かが来ても鍵を開けるな。お前は扉の向こうからの問い掛けに答える必要さえない」
なんだそれは。
「結界でもつくるの?」
「は?」
「私の住んでたところにあったの。おまじない。こっちには無いの?」
「あるが、私は使えない」
バイアスは理解し兼ねると言った風に首を傾げた。
ああ、そうだった。
忘れていた。
この世界には術式とか言う怪しいものが実際に存在していて、結界と言えばチープで古ぼけたおまじないなどではなく現実に何らかの影響を及ぼす力を持つ「実効」なのだ。
だから私はここに居る。
「わかった。大人しくここで待ってるよ」
「それでいい」
バイアスは私の頭を撫でた。
「目付きが悪い」
「睨んでるんだよ」
「そうか」
バイアスが笑った気がした。
もしかしたら彼は性癖が異常なだけで、飽くまでとても心根の優しい救世主なのかもしれない。それならばきっと私にとってこの世界ではとても大切な人だ。
え、あれ?
「痛い。痛い!」
私の頭を撫でていたバイアスの手が私の頭髪を鷲掴んだ。後方へ引っ張られると少し上を向くことになる。
「痛い!」
何度言っても同じだろうけれど、本当に痛いから仕方ない。髪が頭皮からごっそり毛根ごと抜け落ちそうな強さで引っ張られている。
バイアスはにやりと笑った。
顔を近付けられたので逃げるように膝を曲げたけれど、反対の手で身体を持たれてバイアスとぴったりくっ付いてしまった。くっ付き過ぎて碌な抵抗もできない。せいぜい罵倒するくらいしかできない。
「愛してる、って顔してた癖に」
バイアスの呼吸を唇に感じた。目を開くと目の前に紫紺の瞳があった。
う、わ。
「嫌がるのか、俺を」
なんで、襲われて、悲しまれるのか。
バイアスは顔こそ微塵も感情を表さないけれど、この手だけは違う。乱暴な感情をありのままに主張する。
「痛い」
「口付けを、京香……」
バイアスが悲しい瞳で私を見た。
ミクの目は濁って怖いから近付いてはいけないと思ったし、私の方から歩みよることは一度もなかった。でもバイアスの瞳は余りに悲しい。その哀切を私は裏切れない。
キス、した。
バイアスの顔は冷徹で表情と呼べるものがないし、言うことは悉く利己的で一方的だし、性癖は普通じゃないし、だけど、その瞳の青を見ると、私は彼を許してしまう。
私はキスした。
愛してないし、私は一刻も早くこの世界から消えたいし。
バイアスは怖いし。
でも、もしかしたら、って思うから。バイアスは孤独を感じていて、誰かに愛されたくて、どんな形であれ私に何か期待して、裏切られたらどうしようって怯えているとしたら。
そんなの、私には耐えられない。
また異世界に飛んでいっても良い。
私は目を閉じて、キスをした。
【悲しみの青】