「それで、私に何か用があったんですか?」
智仁に抱えられながら私はラゼルを見上げた。ラゼルは私たちを一瞬だけ黙って見詰めた。彼の灰色の瞳には温度が感じられなくて私は怖くなる。
「ええ」
直後、ラゼルはふわりと笑った。
カッコイイ!
正に哀愁と色気のある紳士!
面食いだと言われても現金だと言われても、理想的な身体付きで好みの顔立ちをしている人に優しく微笑まれれば誰でも腰が抜けるというものだ。
「なんですか?」
私は目を逸らしでなるべく素っ気なくなるように尋ねた。
「貴女の瞳が見たくなったんですよ」
「そうですか」
ああ、そうですか。
ラゼルは私の黒い瞳をとても気に入っているけれど、いつか観賞用に刳り貫いたりバイアスみたいに私の身体ごと何処かへ閉じ込めたりしないだろうか。やり兼ねないと思ってしまうことは失礼に当たるのだろうか。
「貴女の瞳は、綺麗だ」
「そうですか」
「その瞳で私を見て下さい」
「そ、……」
なんか、ヤバくないか?
ラゼルは私を殺す為の呪詛を唱えるかのように言葉を続けた。笑んでいた紳士は姿を消して、恋人に裏切られた男がそこに居るように思えた。
「私のどこがいけませんか」
どこでもない。
或は全て。
私を抱く智仁の腕が小さく震えた。
智仁は意地悪で嗜虐趣味だ。だからやはり例外無く当たり前に至極当然であるかのように意地悪で嗜虐趣味なやり方で私を愛する。
灘崎の人たちは私に“愛”を教えてくれた。中でも愛することの力強さと慈しみと許容と不安は、きっと智仁が一番理解し、そして体現していた。
だから私は智仁を頼った。
蔑まれ否定され罵倒され蹴り飛ばされ拒絶され孤独を知った私にも智仁は遠慮しなかった。ほのかよりも深い愛情を智仁から感じたのは、智仁が感情豊かに笑ったり冗談を言うからではない。全ての根底に愛があると思えたからだ。
だから私は智仁を愛した。
「誰と居たのか、聞いた方がいいのかな」
智仁は小さな声で尋ねた。独り言かと思うような聞き方は、優しいけれど智仁らしくないなと思う。
そういう役割はほのかがしていたから。心配したり詮索したりは智仁の柄ではない。智仁はほのかの穴を埋める為に一生懸命になってくれている。
私は自分が情けなくなった。
誰と居たのか?
それを言ったら……。
私も智仁もその先にあるものを望んでいない。
バイアスは私を愛した訳でも憎んだ訳でもない。私たちはタイミングと相性が悪過ぎたのだ。智仁に言うべきことは何も無い。
「大丈夫。ちゃんと解決してから、帰ってきたから」
私は智仁の目を見て断言した。
智仁は笑って私の頭を撫でた。
「怪我してるよ」
「うん」
「化膿止めとかって、ありますか」
智仁は私を膝に乗せたままラゼルを見上げた。
「ありますよ」
ラゼルの灰色の瞳はなだらかに弧を描いた。
そうか。ここは私の居るべき世界ではない。私の知る世界ではない。
私は穏やかに絶望した。
部屋に戻るとラゼルに出迎えられた。
「随分と遅いお帰りですね」
「まだ昼過ぎだけど、」
「私は一昨日から待ち惚けでしたよ」
「はあ、すみません」
何故だ。
何故こうもナチュラルに私の保護者の役割を果たしているのか。そもそも丸で同棲しているように振る舞っているのは何故なのか。
焦げ茶色の髪がふわりと揺れた。
「ローラン…」
人間にとって大切なものは顔ではない。人間には知恵がある。それが神に授かったものか神からくすねたものかの論議は留保するにしても、知恵それ自体の存在は疑いようのない事実だ。
顔に惑わされてはいけない。
「今日は寒かったねー」
私は部屋の中へ進んだ。ラゼルは構わず私の肩に手を置いて望んでもいないエスコートをした。その紳士的な動作に不覚にも心臓が高鳴ったことは黙っておく。
「おかえりなさい」
智仁は私の暫くの不在には興味もないらしく、極普通の表情をしていた。
「ただいま」
ほっとした。
嗚呼、智仁が居る。私の直ぐ傍に、居る。
涙が溢れた。
一気に溢れて床に落ちた。
「どうしたの」
「分かんない、」
分かんないけど、良かった。
肩にあったラゼルの手から離れて智仁に抱き付いた。智仁からはコーヒーの香ばしい匂いがする。あの頃と変わらない匂いだ。
怖かった。
もう駄目かと思った。
痛かった。
一人きりになったのだと思った。
智仁に会いたかった。
智仁に笑って欲しかった。
怖かった。
何も言わずに泣いている私を、智仁は優しく撫でながら受け入れてくれていた。
『詩経』の「子と偕(とも)に老いん(偕老)」と「死すれば則ち穴を同じくせん(同穴)」という二つの誓いの言葉を合わせたもの。
怪物と戦う者は、その過程で自分自身も
怪物になることのないように気をつけなくてはならない。
深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。 byニーチェ
バイアスの住んでいるアパートは街の中心にある立派な建物だ。道を一本入れば大きな銀行や官庁のある通りに出られるし隣人は裕福な独身者が多い。私は複雑な模様のある絨毯が敷かれたロビーから外に出ようとそのアパートの正面扉を開けた。
そして誰かと衝突した。
私はぶつかった衝撃で蹌踉めいて転倒しかけた。突然現れた手に支えられて辛うじて立っていられるだけだ。
「ごめん!」
その人は細身で背丈もそれ程高くない。だから私はその声を聞いて漸くその人が男だと分かった。
「あ、いえ。すみません」
「怪我は?」
「大丈夫です」
赤い髪は何かで染めているのだろう。こちらで見る赤毛とは違って派手な赤をしている。
「…ジグ、」
「え」
ジグって誰?
「あ、悪い。シークかジグトーだっけ?」
その人は赤い頭を掻き回しながら首を傾げた。首筋に見える入れ墨のような模様がその動作に釣られて動いた。妙に色気があって目を奪われる模様だ。
「たぶん人違いですよ。私ここに住んでませんし」
第一ここの人間は誰も知らない。
その人はじっと私を見てから、にっこり笑った。
「そっか、ごめんね」
「いえ」
「俺の名前はレオン。君のことはなんて呼べばいい?」
「京香です」
「へえ、珍しい名前だ。ここではそういう名前が多いの?」
レオンもここの人間ではないのか。
「どうだろう。レオンは引っ越してきたの?」
「俺は、旅行」
レオンは仕事を兼ねた旅行でここへ来たらしい。私は首筋の模様をちらちらと見ながら彼の話を聞いた。