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File:ケアテイカー

 面倒見がいいって言われると、嬉しくなってまた他人の世話をしてしまう。要領も器量も良くないので、他人の世話をする余裕なんてないはずなのに。


 夜、少しずつ人の帰る事務室は冷房も切れて寒いのでコートを着る必要がある。節電の為に電気も最低限に減らされて『居残り』であることを思い知らされる。仕事が遅いから仕方ない。
 机の上にはチョコレート。池田さんがくれた。
「お腹空いた」
 チョコレートの包みを開く音はパリパリと響いて、悪いことでもないのに盗み食いをしている気分になる。

 池田さんは余り残業をしない。そういう人の方が上司にも好かれる。
 私だって何も好きで残業している訳では勿論ない。残業代は元より営業手当も住宅手当もない派遣社員の方が、私より良い生活だと思う。少し遅く出勤して、少し早く帰宅する。残業も出張もない。
 画面には詰まらない内容の報告書が映されている。アンケートの集計だとか見積りの並べ替えや消耗品の整理、誰もやらないから私が頼まれてやっている、それだけの仕事だ。電話対応や事務作業で時間がどんどん削られて、こうしていつも私は残業している。


 お腹、空いた。


「鍵、よろしく」
 鈴木さんがそう言って、開いている棚を指差した。
「はい。閉めて帰ります」
「あー、あと」
「はい」
 鈴木さんはコートを着込みながら言葉を濁した。
「榎本さん、残念だったね」
「あー、はい」
 はいと頷いていながら、私は鈴木さんの言わんとすることが分かっていなかった。理解の無い頷きは鈴木さんにも伝わったらしく、苦笑いされてしまった。
「榎本さんと仲良かったよね。彼、契約の更新しなかったんだって。知らなかった?」
「いいえ、聞いてます」
「そう。だから残念だねって言ったんだけど」
「あー、はい」
「『はい』って。……意味通じてないかな」
「いいえ、分かります。ありがとうございます」
 意味は分かった。社内で一番親しくしていた人が離職して、可哀想ってことだろう。でも、私としては、誰も榎本さんの相手をしないので仕方なく話していただけで、親しかったと思われるのは的外れなのだ。そんな気は、していたのだけれど。
 鈴木さんは、苦笑いのまま「そう」と繰り返した。
「じゃあ、とにかく、鍵の方はよろしく」
「はい」
「お先に失礼します」
「お疲れ様でした」
 鈴木さんは早い足取りで事務室から去って行った。

 まだ手の中にあったチョコレートの包みは、パリパリと乾いた音を鳴らした。

File:ロスト・ワン

 榎本さんは仕事がとても丁寧だ。少し時間が掛かるので駄目だと言う人も居るけれど、榎本さんの作る資料はすごく綺麗で見やすいから私はよく仕事をお願いしていた。
「あの、これ昨日の報告書です」
「ありがとうございます」
 報告書は簡潔で見やすくて注文以上の出来映えだ。私はそういったセンスが無いので、こういうのを見ると感動する。思えば小学生の頃から工作や絵が苦手だった。
「どうでしょうか」
「大丈夫です。ありがとうございます」
「あ、あの、良かったです」
「榎本さんの作る文書好きです。またよろしくお願いします」
 頭を下げて言うと榎本さんはおどおどして視線を泳がせた。
「あの、私、契約が切れて、今月で」
 榎本さんは私を見ずにそれだけぼそぼそと話している。声がはっきりしないのでよく聞き取れない部分もあるけれど、今月で契約を終えたらしいことは分かった。榎本さんにとってそれがどういう意味を持つのかが分からなかったので、私はどう返答すべきかと困ってしまった。
「じゃあ、ひょっとしてこれが最後の仕事だったんですか」
 明日が末日だけれど、明日だけでできる仕事はほとんど無い筈だ。そうでなくても書類整理やコピーばかりやらされていたし、よく考えれば榎本さんの契約が延長されなかったのは道理だ。
「あ、はい。明日は有給で、来ないので。今日で最後です」
 長い前髪に遮られて榎本さんの表情は見えなかった。私は榎本さんといて、俯いて話すからこんなに聞き取りづらいのかとか、自分も注意しようとか考えていた。榎本さんとプライベートで仲良かった訳ではないし、特別悲しいとは思わないのだから仕方ない。
「あの、ちょっとでもお役に立てて、嬉しかったです」
「ああ、それは、こちらこそありがとうございました」
「本当に、嬉しかったです……」
 私は榎本さんに同情したのだろうか。
 榎本さんが遂に一度も私と目を合わせないまま立ち去ろうとしたので、私は思わず声を掛けていた。そして連絡先を交換し、外で会う約束をしていた。


 アドレス帳にある『榎本』の字に、私は自分で面倒になったなあと思ったのだった。

File:英雄

 池田さんは静かに笑って私の肩を叩いた。私の間違いや失敗に誰よりも早く気付いて指摘するのは池田さんで、その時はいつも今みたいに優しげに微笑んでいるのだ。
 私は自分の失敗を予感して、思わず「すみません」と言った。
「まだ何も言っていないよ」
 そう言って池田さんは破顔した。その笑顔は何故だかとても切なかった。
 なんて哀しい顔をする人だろう。
「あ、すみません。思わず」
「このデータ去年のだけど、今年のは無いのかと思って」
 池田さんは私の渡した決裁資料を持っていた。
「すみません! 気付きませんでした!」
 私がこの数分で何度目かの謝罪をすると、池田さんはまた優しげに微笑むだけで立ち去った。


 地下鉄は淡々と走るから好きだ。景色も駅も車輌も在り来たりなところが良い。
 家に帰る電車の中はかなり混んでいても安心する。
「間も無く駅に到着致します。お出口は右側です」
 車掌のアナウンスに座席の何人かが降りる準備を始めた。ドアが開くとホームに人が流れて行き、車内は少し空いてすっきりとした。
「ドアが閉まります」
 アナウンスと共に警告音が鳴った。人が捌けたホームに見えたのは池田さんだった。池田さんは酷く疲れたようにホームにあるベンチに座っていた。
 何しているのだろう。
 電車が出発して駅を後にすると、池田さんはどんどん遠ざかったけれど、最後までぐったりと座り込んでいた。
 別人かも知れない。そう思った。


 翌日、池田さんはいつも通りだった。
「平田さんのところに行くんだけど、今日これから一緒に来れる?」
「はい」
「じゃあ11時頃に出るから、よろしくね」
 その微笑みはやはりいつも通りの池田さんだ。優しくて、隙がなくて、作りものの主人公のように優秀だ。

 電車の中で、私は昨夜のことを思い出し、思い切って尋ねてみることにした。池田さんは気さくな人なので、冗談やプライベートなことも話しやすい。話しに区切りが付いたところで切り出してみることにした。
「池田さんって、丸ノ内線使ってます?」
「そうだよ」
 池田さんは微笑んで答えた。
「昨日、ホームのイスに座ってました?」
「え?」
「チラッとお見かけしたんです」
 もしかすると人違いかも知れませんけれど、と付け足す必要はなさそうだった。
「恥ずかしいな。ちょっと休んでいたところを見られたんだね」
「すみません」
 池田さんは謝ることじゃないよと言って苦笑いした。


 それから暫くはホームのベンチで池田さんを見ることはなかった。ところが、私はまた今度は全く違う場所で池田さんが座り込んでいるのを見てしまった。やはり疲労感のある顔でぼーっとしていた。丸で別人のように。
 それを池田さんに伝えることはしなかった。


 池田さんは会社のヒーローだ。どんなに最悪だと思えるシチュエーションだって池田さんの手にかかると魔法に掛けられたかのように素晴らしいチャンスに変わる。偉大で華やかでとても優れたヒーロー。

 ヒーローは静かに沈む。それは私だけが知っていれば良い。ヒーローである池田さんでさえ、そのことは知らなくて良いと思った。

File:道化

 鈴木さんは優しく笑った。その笑みを賛同と受け取った係長は満足して席に付いた。


 喫煙室には私と鈴木さんの他には1人しか居なかった。煙草を銜えて腕時計を見下ろした鈴木さんの顔は幼いけれど、眉間の皺は年相応だ。
 「そろそろ出ますか」と言った鈴木さんの言葉に、私は元気よく頷いた。
「喫煙できる車もあるんですか」
 私の問いに鈴木さんは「無いよ」と素っ気なく答えた。その声音は、彼が係長と話していた時のものとは掛け離れている。
「何処も彼処も禁煙ですね。流行みたいなものなんでしょうか」
「そうだね」
「……あの、禁煙を考えたことはないんですか」
 やはり鈴木さんは素っ気なく「無いよ」と答えただけだった。

 鈴木さんは愛想がよくて上司にも目を掛けられやすい類の人間らしく、それに応えるだけの知識や常識を備えた彼は出世したがらないのが不思議なくらいだ。
 鈴木さんは黙々と働くので、一緒に仕事をするようになって初めてその優秀さに気付いた。仕事の意味や、やり方も含めて勉強になったことが多い。鈴木さんは自分の手間をひけらかすことがないので、同僚の中には妬んでいる人も居るけれど、上司が気に入るだけの価値が実際に彼にはある。

 それにしても冷たい。鈴木さんの私に対する態度が、である。
 助手席に座った鈴木さんから煙草の臭いが届いた。
「2丁目から回りますか」
「道、分かる?」
「はい。大丈夫だと思います」
 鈴木さんは「偉いじゃん」と呟いてから、目を閉じた。私は眠ってしまった彼を起こさないように丁寧な運転を心掛けた。目的地近くのパーキングに入ってそっと声を掛けると、鈴木さんは直ぐに目を覚ました。
「ごめん、寝てた」
「お疲れですか」
 鈴木さんは苦笑いした。大きな瞳を細めて、申し訳なさそうに。
「運転上手いね。知らなかった」
 初めて褒められた。
 鈴木さんの言葉が罪悪感によるものだとしても、そのぺてんは私を十分に喜ばせた。仕事で褒められるのは嬉しい。


 時間を潰すのに寄ったカフェで、鈴木さんはコーヒーを奢ってくれた。
「俺が出すよ、運転してもらったから。寝ちゃってごめんね」
 慣れないことをされて私はどうお礼を言うべきか分からなかった。嬉しいと思うよりも戸惑いの方が強い。しかし私にだけ態度が冷たい鈴木さんが、これ程優しくしてくれることはこの先二度と無いだろうと思うので、素直にご馳走になることにした。
「ありがとうございます。いただきます」
 鈴木さんは素っ気なく「うん」と言った。


 万人に好かれる資質ではない人間の方が、万人に好かれようとする人間より実は多くの人に好かれるのかもしれない。例えば女性にだけ冷たいとか、助手席で寝てしまうとか、話すのが下手だとか。
 鈴木さんは、その人だ。
 好きになりそうだ、と思った。

File:氷点下

 寒い、寒い。そう思いながら見上げた空は不気味に淀んだ冬空だった。濁った青は薄ら明るいのに黒を含んで重く街を覆っている。
 スマートフォンで気温を確かめると、氷点下だった。
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