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滲む世界に色を



何も無い世界なら 白でできた嘘なら ここに色を灯そう

きっとよく似合うよ

自由に書けというのなら。



私はとってもつまらない。毎日がつまらないように自分もつまらない。

何も新しい物を生み出せず、新しいことに踏み出せない自分は、
切り取られた写真か、はたまた一瞬を切り取った額縁の絵画か
どちらにしろ時が止まったものでしかなく、これは死んでいるも
同じなのではないだろうか。実際、生きてはいるが、生きた心地
がしないといえばいいのだろうか。

しかし、私は生きている。戦時中でもない命を危険に晒すような
目に遭ってもいない。ただ内面が、精神面がとても貧しいのだ。
何かに挑戦することもなく、日々だらだらと飽きもせず同じことを
くり返す。何一つ変わらない、つまらない毎日。

じゃあ、何か課題を与えられたらそれをやるのか。
どうしてもしなければならないこと以外は面倒臭くてやる気が起こらない。
つまりは自分は、酷くまぬけで無能でおまけに金を使うだけの
クズということだ。良いところなんか一つも思い浮かばない。
こんな自分だから好きになれないんだろう。自分も他人も。

結局は死ぬのに、どうして生まれてきたのか。
恐らく、人間として生まれてこれたことは他の生物になるよりも
幸せだと、運がよかったと思える人のほうが多いかもしれない。
今はそう思えない私はやはり罰当たりなのだろうか。

楽して生きたいか。できればそうであってほしい。
しかし、充実を手に入れるには適度な苦労も必要なように思う。
ある程度マイナスのエネルギーを感じてないと、気づけないもの
見落としてしまうものは多いと思う。

きっと私はバランスよく生きたいのだ。何もかも中途半端であるが故に。
バランスのとれた人、その生活、すべてを見ると憧れずにはいられない。
不器用で、でも本当に最低限のことはできる。でもそれ以上に素晴らしい
他人より秀でたものは何も持っておらず、ただ消費するだけの存在。
言うならば使い捨てに近いだろう。自分はそんな存在である。

これだけの自由を与えられたのにそれを十分に活かしきれない
私はなんてもったいない、非効率的な存在なのだろうと思う。
もしも誰かにこの身体も魂も渡してやれたならあっけなく渡して
しまうだろう。

太宰治の『人間失格』を読んでみたい。あれを読むと大抵の人は
立ち直れないと聞く。死にたくなるほどだろうか。死にたいと思える
くらいの衝撃を与えられるのだろうか。何にしても興味がある。
ただ、私には死ぬ勇気はない。死んだら楽だろうなと思いはするが、
集団自殺なんか真平ごめんである。どうして死ぬ時まで他人に
合わせる必要があるのだろう。決定権は自分にある。

このまま行き当たりばったりで生きていればどうなるだろう。
どうなるかは誰にもわからない。あらかた予想はできるが、
果たして予想通りの人生となるのだろうか。答えは自分自身にある。
何がどうなるかなんて、本人の行動でしか何も変わらないのだ。
生きたいと思えばそれなりの努力をするだろう。
死にたいと思えば楽な方法を探すだろう。
愛する人と巡り会いたいならば必死で探し求めるだろう。

何かしたい、そんな欲求が生まれた時にこそ人間は本来の力を
発揮するのである。思いは力、とはよく言ったものだ。

ただし、私は出会い系サイトなんかを頼って生涯ともに生きる相手を
探す気は全くない。得体の知れないそんなものは御免被りたい。
そうなるとどこで出逢いを求めればよいのか、ということになるが、
大学の教授が言うには、こうだ。

「出逢いはキャンパスの外にある!!」 

――正論である。
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