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討ち入り

今日は朝からバタバタして、携帯を忘れました。
昔は「なくて当たり前」のものだったのに、なんでしょうこの落ち着かない感じ(~へ~;)


そして今日は「本家本元の討ち入りの日」。
(「どうでしょうの屋敷への討ち入りではなくて)

以前は「赤穂浪士」に同情的感覚を持っていましたが、ここ数年はどちらかというと「吉良氏」に心を寄せています。

あまり「忠臣蔵」に興味がないので詳しくないですが、浅野の殿様は世間知らずというか真っ直ぐ過ぎの性格だったのかな?と思ったり、江戸詰めの家臣にしっかりした人はいなかったのかなと思ったり。

吉良氏はそんなに悪い人に思えずにいます。
強いていうなら「浅野氏は進物が少なかったから、ちょっと懲らしめてやろう」的な考えで、畳のことを言わなかったり、着物を間違えて教えたりしたのかな、と。

なので、浅野氏が折れて頭を下げるとか、年長者を立てるとかすればこんなことにならなかったのでは…。と思ってしまいます。(当時と今は考え方は違うので、こうは行かないかもしれませんが)


その「忠臣蔵」ですが、何気に伊達家と関わりがあって、数年前に気付いて(←遅っ)驚きました。

まず、赤穂藩の浅野の殿様=浅野長矩様
この方は政宗公が絶縁された浅野長政氏の子孫なんですね…。

浅野氏と一緒に饗応役をしていた人=伊達村豊様
伊予吉田伊達家の藩主様

浅野氏が切腹した場所=江戸:田村家屋敷
忠宗公の孫:田村建顕公屋敷。

そして、赤穂浪士が討ち入り後に市中を歩くなか、唯一、屋敷の門を開けていたのが、仙台伊達家。

刃傷事件の約二十年前、伊達家の家臣の一人が「製塩方法」を手に入れる為、赤穂藩に潜入し塩田技術者の入婿となり、製塩方法を取得し、仙台藩に戻ります。

ですが当時、製塩方法は機密で他国に漏らすことは禁じられていました。赤穂藩は仙台藩にその家臣の引き渡しを要求し、仙台藩は書状で陳謝しますが、結局その家臣を引き渡すことになりました。

しかし、赤穂藩の家老大石良雄臣は「藩の為を思ってのこと」と許します。

その時の恩に報いる為、各屋敷が門を閉ざす中、門を開けて討ち入後の浪士たち粥を与えたそうです。

(現ご当主様の妹様が書かれた本にあった話ですが、今手元にない状態で書いているので若干うろ覚えです
↑あとで確認・直すかもしれません m(_ _)m
↑確認・訂正しました)


そんなこんなで、何かと伊達家と関係ある伊達家ですが、私の中ではやっぱり
浅野氏・赤穂浪士<吉良氏
だったりします。

同じように、昔は「源氏贔屓」で「平清盛」が大嫌いだった私ですが、ここ数年はなんだか清盛好きだったりします。
(来年の大河だからではないです。)
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