デッサン
デッサン
「卒業まで待ちなさい」
そう言って先生は、俺の唇の前に人差し指を縦に当てた。
「卒業するまで待って」
「嫌だよ。好きだもん」
なんで?と詰め寄ろうとして、やめた。
「それなら」
先生が泣いていたから。
「好きなら、待ってて」
―――――
―――
―
体育館前の喧騒はすっかり消え、運動部の大きな掛け声が聞こえてくる。
今日一緒に来た野球部OBの友人に部室に匿ってもらい、制服の生徒の姿がなくなるのを待っていた。
好きな女性を泣かせるなんて、俺は最低なやつだ。
何かの間違いだと思いたかった。
過ぎ去ったことはいつか見た夢と同じだと、何度も自分に信じ込ませようとしていた。
それでも、先生に拒まれたことと泣かせてしまった現実は、記憶のすみの決して無視できない場所にあり続けた。
ひとりになって、勉強と戦うことに専念した。
大学に合格して、学生になって、受験が終わった。
清々しい気持ちの半面、もう一方に残しておいた葛藤とケリを付けることができなかった。
卒業式は、ほとんど顔を合わせることができなかった。目が合うたびに反らしてしまって、何も言えなかった。
今日こそ。本当に最後のチャンスだ。
文化祭が終わった夜、泣かせてしまったことを謝りたい。そして気持ちを、伝えたい。
美術科の職員室を覗くと、加藤先生の机はもう片づけが済んで何も置いてない。バッグもない。
先生もここにはいない。
1階の外の渡り廊下を通って、見上げてみる。窓は開いている。
もしかして最後の日でも、いつものところにいるのだろうか。
二段ぬかしで階段を上がっていく。
ガラス張りで開放的な大学のキャンパスとは違って、湿っていて埃っぽい校舎がもう懐かしい。
ついこの間まではここの生徒だったというのに、泥棒みたいにこんなにこそこそしてしまう自分が不思議だった。
私服姿の自分は、もうこの校舎にうまく溶け込むことができない。
それだけの時間が経ってしまったということだ。
そして先生のここでの時間もまた、すべて過ぎてしまおうとしている。
首から下げている入校証がぶらぶらと鬱陶しく揺れるから、ジャケットの内側にしまった。
このあたりまでくれば誰にも出くわさないだろう。用がなければ誰も来ない場所だ。
北校舎の薄暗い渡り廊下にある美術室。このドアの奥に、先生はいた。
美術部の副顧問をしていることもあり、いつもここにいて、何かしらのものを描いていた。
油絵の時もあったし、水彩やスケッチのこともあった。
話し声は聞こえてこない。耳をそばだてると、物音はかすかにする。
呼びかける前に、少しだけ開いているドアを覗いて、中を確認する。
やっぱり。先生がひとりで居る。
ほぉと息を吐いてから、短くノックをする。
トントン。
「失礼しまーす」
先生は、奥の窓際の机の前に座り、スケッチブックにデッサンをしていた。
ツンとした絵具と、新しい木のにおい。生徒たちの描き途中の絵が、イーゼルから床に下ろされて壁や棚に立てかけられている。
「本当に来たの」
先生は半分笑いながら言った。ドアが開いた時に一瞬止まっただけで、鉛筆はまた動き始めている。
どうしても会いたくて、夜中にLINEした。
――明日離任式でしょ?行くんだけど、終わったあと会えませんか?
式は午前中にとっくに終わってる。
残っているのはいつものように部活動をしている在校生たちと、いつものように仕事をしてる先生たちだけ。
加藤先生と一緒に3年間を過ごしてきた俺の学年はもう卒業しているけど、今日は何人も来ていたし、俺もその一人だ。
そして先生は、下の新2・3年にだってアホみたいに慕われている。
終わった直後は職員室の前でみんなと写真を撮ったり、プレゼントを渡して話していた。
先生は人気者だから、ずっと待ってないと2人きりにはなれない。
「ごめん、忙しかった?」
「学校にいる時の私はいつでも仕事中ですよ?」
足元には大きめのトランク。人がひとり入れそうなくらいの。
持ち手のところにアルファベットのタグが付いているけど、どこの国を指す言葉なのか、俺にはわからない。
「片づけなら手伝いますけど」
「とっくに終わりました」
トランクには画材とか、お気に入りの画集とか、世界堂のビニール袋にくるまれた何かとか、絵を描く人の一式が詰め込まれていて、
リボンや包装紙のかかった袋が、それらの隙間に押しこまれている。
トランクはその半分を机によりかけた状態で開かれていて、
その蓋が無事に閉められロックシステムがカチッと発動するか怪しい量の荷物だ。
「ちょっとー。レディのキャリーの中じろじろ見ないでくれる?」
顎をつきだして不満そうに微笑む先生は、生意気な同級生の女子みたいに無邪気で、
そんなことを口にしながらも、デッサンを描く手は仕事を止めようとしない。
「こんな日でもやってんだ。今日くらいサボったっていいじゃん」
「弛まないことだよ、茂木くん」
先生が膝と机のあいだで立てかけるようにして持っているスケッチブックを覗きこむ。
「何描いてんの?」
「記念に。今日が本当にもう最後だからさ」
先生は絶対に隠さない。逃げない。
自分に自信があるから。
真っ白な紙に浮かび上がるのは、先生がいつも座っている机の窓から見える校舎の中庭だった。
わずかばかりに丘のようになっている中庭の真ん中に、よくわかんない石碑が建っていて、
花崗岩の石がそれと調和するように遺跡みたいに並んでいる。
周りの草は、伸びすぎでも刈られすぎでもない。いつの間に手入れをしたのか。
あとは、頼りない記念樹が二本。屋外の渡り廊下と中庭を仕切るように、木製のベンチがひとつある。
その近くにはいくらかのタンポポが身を寄せるように群生していて、その黄色を見るたびに、また春が来たんだなと思う。
俺が高校に入った年、加藤先生が赴任してきた。
一見素っ気なくて、でも話せば愛想がよくて、でも言う時は言う。すっと言葉が頭に入ってくる。
賢くて鋭くて、いつでも自分を貫いていて、でも物腰柔らか。
そのうえに美人。
男子からも女子からも「かとれな」と呼ばれて、いれば必ず誰かに話しかけられて、楽しそうにしてた。
俺は黙って先生の手元を見ている。
そして時々その真剣な横顔を見て、気づかれないうちに視線を戻す。
「結構好きなんだよね、ここ」
芸大予備校の時代から、将来有望な生徒と言われていたらしい。
「天才的な実力で絶大な期待を寄せられていた」とか、話盛ってる気もするが、確かに有名な美大を出ている。
それに何より、うまい。
芸術とか、美しいとかそういうのは俺にはよくわからないけど、
スケッチブックという二次元空間に、もう1つの窓からの眺めのようにのびのびと絵が存在している。
そこから臨む鉛色の景色は、
本当はこの紙の中にずっと前から潜んでいて、鉛筆の先に描き出されるのを待っていたように思える。
先生が描く絵は、どれもそんな感じがする。
さーっ、さーっ、さっさっさっ。窓枠に代わる長い線が引かれ、細かいところを描き足している。
終わってしまう。
「魔法みたいだよね」
「え?」
「なんでもない」
つい出たぼやきが急に小恥ずかしくなって、描いたの見せて、と手を伸ばした。
先生の目線がちらっとこちらを見上げる。そして話題を反らす。
「なーに?何か用があって来たんじゃなかった?」
「や、あの…」
そうなんだけど。
話題は反らされたんじゃなくて、本題に導かれようとしていたのかもしれない。
でも結局本題には入れずに、先生が切り出す。
「大学は?もう授業始まってるんじゃないの?」
「今日はいい講義なかったから履修取らなかった」
「ふうーん」
本当は必修科目を4コマサボっている。
「なんだよ。寂しいだろうなって思って来たのに」
今度は悪戯に微笑んだまま何も言わないから、次の言葉を探す。
本当はこんなこと話したいわけじゃないんだけど。
「先生、今度からB高でしょ?」
「そうだよ」
「俺の地元だけど」
「へぇーそうなんだ」
「頭悪いとこだからさ、気をつけてね」
「何に気をつけんのよ」
先生は笑った。
深い大きな目が細くなって、子どもみたいな顔になる。
新しい場所でもきっと、みんなが嬉しそうに、愛しそうに、先生のことをかとれなって呼ぶんだ。
「茂木くんはK大だってね。おめでとう」
「うっす」
「いいとこじゃん。頑張ったんだね。受験」
成績のいい生徒ではなかったし、授業中は寝てることも多かったし、
美術の授業でも生活面でも大したことはしてない。
3年間で褒められるようなことは一度もなかった。
「しっかり勉強して、しっかり遊びなさいね」
ズキン。
今、俺と先生には同じ、ひとつのことが見えていて、それはきっと確かなんだけど、
お互いにそれが見えていることに触れずに、それを避けている。
今までと違うなにかに気がつくのには勇気がいる。
先生の細い指が、スケッチブックを綴じるリボンを結んだ。
トランクの荷物の一番上にそれを乗せると、立ちあがった。
一仕事終わったすがすがしい背伸びをして、部室を眺めながらまじまじと言った。
「もうここ来ることもないなー」
「なんか、いろいろ無くなっちゃうね」
会話が途切れた。
先生はまっすぐに俺を見上げていた。
肝心なことが切り出されるのを待っているようにも、怯えているようにも見える。
俺は反射的に視線を脚元に向けた。
ジーンズと不釣り合いな歩きづらいスリッパが、見慣れた校舎の床に栄えている。
そこにある自分の足で、見れば見るほどぐらぐらしてくる。
緊張と焦りで、心臓が高鳴って、血流がバクバクと頭を圧迫する。
このままだと、終わってしまう。
言わないと。
悟られないように深く息を吸い込んで、ずっとずっと口に出せなかった、その名前を声にした。
「かとれな」
3年間、どうしても呼ぶことができなかった。
友人と話す時はそう呼んで合わせていたけど、
みんなが声をかけるように、彼女を花のようなニックネームで呼ぶことができずにいた。
「…ん?」
今まで聞いたいつの声より、ずっと優しかった。
俺の知ってる先生の声じゃなかった。
「ごめん。あの時」
「何のこと?」
「わかってるくせに」
少しの間が、彼女にも思い当る記憶があることを認めた。
「なんで謝んのよ」
「だって」
泣いたじゃん。先生のくせに、ただの女子みたいに泣いてたじゃん。
「忘れられないんだよ。あの時の、かとれな」
恥ずかしさを押しのけて顔をあげると、俯いた彼女がいた。
いつものエネルギーに溢れた先生はどこにいったんだろう。何か言いたげで、でも不安げで。
彼女が考える時間をもてるように、でも沈黙を押しのけたくて、俺はひとり言みたいなふたり言を続ける。
「ベンチ。誰か座ってた。さっきのデッサン。……あれ、誰?」
今ここから眺めていた時、中庭には誰もいなかった。
でもデッサンには、中庭の横の渡り廊下のベンチに1人、座っていた。
髪の短い、制服を着た男子生徒。小さく描き添えられていたから、顔までは描かれてなかった。
中庭のベンチからはこの美術室の窓際がよく見えた。
部室が近いから、友人の部活が終わるのを待つふりをして、放課後によくここに座ってた。
天気のいい日は開け放たれた美術室の窓から、時々、先生の声が聞こえた。
「ねえ。教えてよ」
誰がいるの?あなたの描くデッサンの中に。あなたの世界に。
外で鳥が鳴いているのが聞こえてきた。俺たちは正常に呼吸をしているのかも怪しいほど静かだった。
脚はすくんで、動かすことができない。
少しでも動かしたら、池の小さな金魚が驚いて一斉に逃げて散っていくみたいに、
大切な何かがここから去ってしまう気がした。
「大学行ったらさ、忘れちゃうんじゃない?」
いじけた子どもみたいに、かとれなは言った。
笑いそうな声と、泣き出しそうな声は似ている。笑いだすのを抑えるようにして湿り始めた。
「全然覚えてないよ。高校の時の先生なんて。会いたいとも思わないしさ。
だから茂木くんも、私のこと忘れちゃうんじゃないの?」
俺は首を横に振った。何度も、何度も、それは次第に大きくなった。
「そんなことねぇよ」
泣き出しそうな彼女を抱きしめたくて、触れたくて、でもブレーキがかかって、
無意識に伸ばしてしまった両手は、彼女の掌でも腕でもなく、手首のあたりを掴む。
なんだこの中途半端は。勇気なさすぎる。
やわらかい肌の上で、指先が震える。
「みんなはそうかもしれないけど、俺は違う」
卒業したら忘れることができると思っていた。
小学校や中学の時みたいに、新しい環境になったらまた新しい気持ちが始まるんだと信じていた。
けど、そうじゃなかった。
「忘れられないから来たんだよ」
キャンパスに向かう電車の中、講義中、帰り道。
かとれなに話したら何て言うかな、どんなふうに考えるかな、今のヘマを笑ってくれるかな……
ふとした時に思った。かとれなは俺にとって、ただの先生じゃない。
「俺、かとれなが好きです」
きっと緊張なんだけど、さっきよりも心地のいい。
言った途端、体温が上昇するのがわかった。
彼女のふわりと巻いている髪が引力で垂れて、その表情を隠している。
いろんな選択肢が頭の中を光の速さでかけまわって反響する。
ぽつりと空気を震わせる、彼女の声。
「来ないと思ったんだ。連絡も、茂木くんも」
いつもの自信に溢れた美術の先生はどこにもいない。
「忘れようとしてたのは私のほうだ。まさかこんなに好きになるなんて、思わなかったから。」
俺よりも頭ひとつ分は背の低い彼女が、うんと繊細に感じられた。
俺と同じで、かとれなも怖かったんだ。いつもは隠してただけなんだ。
「ありがとう」
彼女がふいに自分のすぐ傍にいて、おでこを付けて肩にもたれていることに気がつく。
「もういいの?」
「卒業したからもういいよ」
その小さい背中を抱きしめた。嗚咽がひどくなった。
大人になってもこんなに小さくて、細くて、脆いんだ。
「泣き過ぎじゃない?」
「だって……待ってたから……」
それからしばらく、何も口を聞かなかった。
かとれなは俺の腕の中でじっとしていた。時々小さな声で「嬉しい」とひとり言をしていた。
俺は雨宿りをするみたいに、彼女の涙が止まるのを待った。
「あれ、茂木くん」
目元を拭っている手のせいで、口元が隠れてくぐもった。
彼女の顔を覗きこむ。
「え?」
「スケッチの。ベンチの。さっき聞いたでしょ」
唐突にいつもの彼女が帰ってきて、話の本筋に戻るのに時間がかかった。
ああ、あのスケッチに描いてあった人の話か。
と、デッサンを思い出しているうちに、かとれなは俺の両肩を叩き、その反動で離れていった。
「さ。これ持ってって」
「はい?」
斜め下の床を指さす。開きっぱなしになっているトランクのことを言いたいらしい。
話が急だ。いつものかとれなが戻ってきた。
「いや、持ってくけど…」
「けど何」
このあと俺は、この見た目からして筆舌に尽くしがたい重量のトランクを持ち上げることになる。
2階とはいえ、これをかとれなが一人で持ち運ぶのはさぞ大変な作業だろう。
トランクを閉め、きちんとかみ合わせが合うようにギュウギュウと押し込めている。
「俺が来なかったらどうするつもりだったの?」
「来るって信じてた。未来が見えるから」
こっちを振り返って笑った。
彼女が言うと、どんな冗談でも現実味を帯びる。
だって、本当にそうだから。
「じゃあスケッチブック、あとで見せてよ」
「いいよ」
見てるだけで飽きないから。今度は何が見えるんだろうってワクワクする。
だから、もっと見ていたい。
彼女が絵を描いてるのを。絵を描いていくのを。
魔法みたいに、その鉛筆は止まらない。
- END -
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