少しあたまをつかいます。
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それはファンタジー。 【※閲覧パスはプロフを参照!】
少しあたまをつかいます。
エリアN
3.
アヤカは紅茶をまた一口飲んで、マグカップをテーブルに下ろした。ほのかな甘い茶葉の匂いが漂った。
その左腕を正面にまっすぐ突き出した。
掌をぐーに閉じたりぱーに開いたりさせている。
「あっちの世界のあたしはもう死んじゃってるから、影がないの。」
その様子を見ながら、なにも言動できず硬直する智美。
わけのわからない事実がつぎつぎに並べられていく。
「“死んじゃった”?“あっちの世界”?」
「そう。あっちの世界が現実で、こっちの世界は影。」
「智美ちゃんもやってみ」とアヤカは智美の手首をつかんで、驚きに縮こまった腕をまっすぐに伸ばさせた。
2人の腕が並ぶ。床に智美の影しかない。
本来なら暗がりができるべき位置から、ゆっくりと落とした目線をあげた。
「でもアヤカさん、わたしみたいにちゃんとここに居るよ?」
「ここは『影の世界』だから、ちゃんとした実体として生きてられるの。」
「つまりこっちの影の世界では、影が実体になって、実体が影になる、ってこと?」
「そういうこと。
カメラのフィルムでいうと、あっちがポジでこっちがネガみたいなもので。だから空も真っ黒。
さっき不思議そうに時計みてたでしょ。
ここは一日中“夜”だから。太陽はないの。月がのぼったり沈んだりするだけ。
あっちの世界から来た人は、慣れるのが大変みたい。」
「なーに話してんの。」
1階にいても話全部つつ抜けだよー。
さっきアヤカが登場したのとちょうど同じ位置。手すりに寄りかかっている。
くたびれた黒のキッチンシューズ、ダメージだらけのジーンズに、黒のタンクトップの女性。
「あれ、ユカは?」
「飯食って出かけた。」
きっとこの人がサヤカだろうと智美は直感した。
ちょうどバイクの発進するエンジン音が外に響いたところだったが、
ユカがどうこう言っている場合ではない。
切実な脅威は、智美の表情にはっきりと浮かんでいた。
「ここは影の世界なの?」
「そう。影の世界。
こっちは時間の進みが遅いんだ。
1日が、あっちの世界の2倍長い。アナログ時計は1日に4周する。
けど太陽がのぼったりおりたりしないし、月も気まぐれなもんだから、あんまり“今日”とか“昨日”とかって感覚ない。」
「1日が48時間。太陽がない。死んじゃった人が影になって生きてる…」
「サヤカ、待って。まだそこまで話してない。智美ちゃんついてこれてない。」
智美は、今伝えられた事実をぶつぶつと小声にした。
アヤカの「大丈夫?」の問いかけにただ頷いた。
全身から力が抜けかけて、両手に握りしめたマグカップを落としそうになったがどうにか気力を堪えた。
思考回路がパンクしそうに、頭は混乱している。
けれど、気持ちのほうはどこかはずむような感覚もおぼえていた。
「2人は死んじゃったの?」
「そう。あたしもともと身体弱かったんだけど、病気しちゃって。」
「サヤカさんも?」
「うん。車で事故った。」
真夜中の新宿を走ってたらトラックが正面からつっこんできてさ。ビックリしたよね。
死後も生きていると、まるで受験や就職みたいに誰もが経験することとして、死が本人の口からあっさりと語られる。
「みんなそれぞれ死んじゃったからここに居るの。」
「死んだ人はみんなここの世界に来るの?」
「いや、そういうわけじゃないよ。
ここはもっと生きたかった人だけが落ちてくる場所。
私はどうしても自分のお店を持ちたかったから。
アヤカもユカもそうだよ。」
「あたしはダンス続けたかったから。」
机には、アヤカのマグカップの奥に、マグカップがもうひとつ置いてある。
陶器の白一面に黒地がプリントされていて、草や花の装飾とネコが1匹、シルエットで型抜きされている。
ネコ、あるいはネコ科の動物なのかもしれない。
ヒョウみたいなブチの模様が、背中や顔の部分に少しだけかぶせられている。
智美が座っている位置からは、中身の飲み物の量は見えない。
目を覚ました時からずっと置いてあるから、残っていても冷めきっているはずだ。
あまりに部屋に馴染みすぎて、アヤカは黒いマグカップの存在を気にもとめていない様子。
もしかしたら智美にしか見えていないのかもしれない。
「だって考えてみて。今、生きている人間と死んだ人間、どっちが多いと思う?
このまま時間がずっと進んでいったら、幽霊で世界がいっぱいになっちゃうよ。」
言われてみればごもっともな意見だ。
気にとめたこともなかった。
輪廻転生とも来世とも最後の審判の先に待ってるのとも違う、“死んだ後の世界”なんて。
「わたし、死んだの?」
「死んでないよ。だって影を持ってるでしょ?」
「じゃあ、どうして…」
サヤカもアヤカもその質問には答えなかった。
智美もそれ以上はなにも言わなかった。
死んでいないらしい。影もちゃんと持っている。けど、心残りになりそうな夢は持っていない。
「ユカは影を探す仕事をしてる。」
「影を探す?」
「『ピーター・パン』知ってるでしょ?彼が探しまわってるのと同じように、他人の影を探してあげるの。
こっちに迷い込んでくる人は大抵は自分の影をなくしちゃってるから、
あっちの世界に帰れなくて困ってるんだ。」
智美のように、影をつれたままこっちの世界にくる人もいるそうだ。
迷い込んでくる場合も、好んで行き来する場合もある。
ユカの友達がよく遊びにくるらしい。
ユカはその人と一緒に“影探し”の仕事とやらを行なっている。今さっきもその仕事で出かけていったようだった。
「あいつっぽくないでしょ?あんなんで人助けなんてさ。」
ガラじゃないよね。
サヤカは腕を組んだまま、笑ってにやけた口元を手で隠した。
「そうだ。そんな話するんで2階に来たんじゃない。残り物でリゾット作ったんだけど、食べる?おなか空いてない?」
本のページがめくられたように先に進んだ気がした。
パッと時間の計算ができなかったが、智美の身体の感覚は眠りから目覚めた朝の空腹をつれてきた。