あなたの親はご健在ですか。
あなたは親と、仲がいいですか。
私の場合は、父親はなくなり、母がいて、幸いにして仲がいいんですよね。
母は兄夫婦と住んでいて、私は離れて暮らしている。
母は私と50キロくらい離れたところに住んでいる。
私はたまに母のもとに遊びに行くけど、1年の間で、だいたい10回くらい行くだろうか。
これから母は、何年くらい生きてくれるのだろう。
母がなくなると、私はかなり悲しみ、がっかりするだろう。
1年の間に私が母に会って、ゆっくり話をする日は10日として、それを母が生きてくれる年数に乗じると、私がこれから母とゆっくり話ができるだいたいの日数が算出できる。
10年だったら百日、5年だったら50日か。
少ないものです。
兄は毎日母と暮らしているから何百日もあるけど、私の場合は少ないわけです。
だから、母と話をする機会は大事。
たまに私は母に電話をして、とりとめのない話をする。
だいたいが、母が一方的に話をするわけで、私はうなずきながら話を聞いている。
母があの世にいってしまったらこうして話もできなくなるだろうな、とかぼんやりと考えたりもしながら。
繰り返すけど、私は母があの世にいってしまったらかなり悲しむだろう。
そして、母が生きているうちに、もっともっと話をしていたらよかったな、と思うに違いない。
母とスマホで話をしているその姿は、客観的に見ると、小さな箱を耳につけて、一人つぶやいているように見えるだろう。
この姿を数十年前の人が見たら、一人でつぶやいているおかしい人か、あるいは何か霊とかと話をしているように見えるだろう。
いない人と話をしているのだから。
いつか母があの世にいってしまったとしても、スマホで電話するように霊界通信ができないものか。
そうなったら、鍵を握るのは、夢の中での通信なのではないかと私は思っている。
そうなると、明晰夢の技術を今から磨いておくのも大事だと考えている。
人が金縛りにあうのは浅い眠りの時だし、それが単にレム睡眠中の霊的でない現象かもしれないとはいえ、やはり浅い睡眠中には霊的なものと交信できる可能性は私はあると思うし、霊は人がはっきりした意識の時は交信しにくいと思われ、だから私は、明晰夢を見る状態は霊界通信に極めて適しているのではないかと思うのです。
母がいつかなくなっても、望むとき、夢の中でもなつかしく話をしたいと私は思っております。
あれは1カ月半も前だったかなぁ。
私の地方も今冬は当初、雪がふらなくて、12月頭になっても雪がぜんぜん積もらなかったんですよ。
で、朝晩、私は通退勤が楽だった。
私の通勤経路には、広大な田んぼがありまして、でもそこは山の中ではなく、近くに中学校があったり、開けた大きなほ場整備された田んぼなんですよ。
で。
12月頭ころに、通勤経路の、坂を下って開けたところにあるその広大な田んぼに、椋鳥(むくどり)の大群が、巨大なうねりとなって黒々と、うごめいていたのです。
びっくりしましたね。
でも。
さらにびっくり驚愕したことに、そのむくどりの大群、むくどりじゃなかったんですよ。
近づくに従い、その巨大な大群、それがカラスなことに気づいたのです。
広大な田んぼの、その部分、地面には、カラスが万単位で歩いているし、上空にも、何万か計算できないんですが、ものすごく黒々と空一面にカラスが舞っていたんですよ。
私は驚きましたね。
そこの、1市3町どころか、もっと広範囲のカラスというカラスがすべて集まって、巨大な集会を開いているような。
こんなことって、私の人生で初めて見ましたよ。
で、ものすごくその後を知りたかった私でしたが、職場で大事な会議があり、そのカラスの大集会のその後を確かめることができなかったんですが。
でも不思議です。
あんなに莫大な数のカラス、どうやってそこに一堂に会したのか。
そもそもどのような伝達手段でその場に巨大に集まったのか。集まることができたのか。
チラシもない、電話もない、情報のネットもないと思われるカラスたちが。
そしてなんのために集まって、そこで何を話し合っていたのだろうか。
翌日にはそのカラスの大群はまったく、一羽もそこにはいませんでした。
それどころか、通勤途上でその日や翌日、カラスを見たのは市内でたった1羽ずつでした。留守番カラスだったのか。
カラスが大集会していた翌日には今季初のまとまった雪が降りました。
カラスの大群がいた場所も一面真っ白な雪。
あれら数万のカラスらは、翌日の降雪前に、来春にまた会いましょう、と互いに別れのことばやあいさつを交わしあっていたのではないのでしょうか。
その後、彼らはいったいどこに行ったのか。
いまでもしみじみ不思議に思っています。
以前、ここに、明晰夢を見る楽しみについて書いたことがあるのですが。
明晰夢とは、はっきりした夢、という意味ではなく、コントロールしながら見ることができる夢、という意味なのです。
夢の中で、行動を変える、というか、コントロールできる夢を明晰夢といいます。
これが、非常におもしろいのです。
ここでは、長い間、疑問だったことが解決するようなこともあるのです。
あっ、そうだったんだ、そこはそういう場所だったんだ、とか、それで私はこうだったんだとわかったりすることがあるのです。
例えば、時々、行ったことがない所だけれど、何度もそこの景色の夢を見ることがあるとする。
なつかしいけど、どこなのかわからない、でもなつかしくて、行ってみたい、どこなのか知りたい、という場所があるとする。
これが、偶然、夢に出てきたとする。
私はそこで、その場所の奥に歩を進めるのです。
ずっと歩いていくのです。意識的に。
場合によっては、その先の小路に入って、踏み切りを渡り、その先に行ってみたりする。
そうすると、そこがどういう場所なのか、わかったりするのです。
ああ、そうだったのか、と。
私が生まれる前に、父親がたまに行っていた遠い親戚の家のそばだったんだな、とか。
私が二歳くらいの時に連れられていったことがある、その後立て替えられた市場だったんだ、とか。
気付くことがある。
宿題が解決することがある。
それがまた、とても興味深い。おもしろい。
こうして、夢を変えてみる訓練をしていって、いつかは自分が生まれた意味、なんのために生まれたのか、自分はいったいなんだったのか、等、気付くことができればいいな、と思ったりしているのです。
題名を最初、最近元気のないボス、にしようかな、と思ったのですが、元気がないのは最近だけでなくここずーっとだったので、この題名にしたのですが。
ボスはずーっと元気がない。
これは、日照時間が短くなったからなのではないのです。
ずーっと元気がないのです。
テレビは昔から見ないけど、たまにニュースを見た流れで次の番組が入るととにかくつらい。
特にバラエティー番組が、音を聞くだけでも苦痛。
仕事には、やっと行っている。
できることなら休みたい。家のローンを払い、一生食べていくことができるお金があるのなら休みたい。仕事をやめたい。自由業をしたい。
でも、そんな夢物語は語るだけで、実際はない。
朝はやっと起床し、風呂から熱カロリーをもらい、コーヒーを淹れポットに詰め職場に向かう。
苦痛の中、コーヒーを淹れるのは、職場にたどり着いたときのささやかな楽しみとなるから。
職場の机で目を閉じ、コーヒーの香りをかぎながら、ここは落ち着く喫茶店だ、と思い込む。
わずかな時間。
だから必ず、朝のコーヒー抽出、ポット詰めは必要だ。
職場に向かう時には、仕事をやろう、やらねば、という気持ちは以前はあったが、今では、最初からそういう意気込みでは行くことができず、往路の車中では、「今日は行くだけで、とりあえず机にたどり着き最初コーヒーを飲み、最悪帰ろう。今日はもともと休む日だから、仕事をしないでしたふりをしよう。」と出勤し、たどり着いたらもちろんやらざるを得ないから、そこから仕事が始まるのだ。
とにかく、ダメもとの気持ちで職場にたどり着き、仕事に移行している。
つづく。
たまにはタルトもいいよね。
熱いコーヒーに合う。
私って、ビスケット生地ってそんなに好きなわけではないけど、甘さをおさえたフルーツたっぷりのタルトの生地だったらゆるせる。
プチプチのブルーベリーもいい感じ。
ぜいたく。
あなたにも届けたい。