先日、先般、私の誕生日だったんですがね。
記念に、私のスマホの画面に購入時から表示されているFacebookというものに登録してみたんですよ。
登録には、メルアドはもちろん、氏名・よみがな、性別、生年月日の入力を求められ、さらに必要に応じて詳細な個人情報まで入れる様式、構成、ページになっているんですよね。
で、私は、求められる必要最小限の情報を入力してみたんですよ。
でも。
浅はかだった。
私はふわふわしていた。気持ちが。
自分のことをよく省みないまま、登録してしまったものだと感じたんですよ。
完全に、ミス、衝動買いみたいな過ちをしてしまったな、と思ったわけですよ。
じつは、よく考えると、というか、よく考えなくても、考えるまでもなく、私って、「私ほど友達のいない人はいない」と言ってもいいほど友達っていないんですよね。これだけは自慢できる。自信を持って言える。
私ほど友達がいない人っていない。
友達、とは、もちろん知り合い、とは別の意味です。知り合いはたくさんおります。でも、この人って友達か、というと私の中ではほとんどすべて、友達という程度ではない。
第一、友達の必要性というものを感じたことがない、知り合いも敢えて増やす必要もない、そういう感覚の人間なんですよ私は。
だから、結婚式での出費や交際費が少ないので助かっている。
それはともかく。
友達がいない。
そもそも、友達がいない、ということはわるいことだろうか。
はずかしいことなんだろうか。
後ろめたいことなんだろうか。
ひみつにするような、敢えて口外するのはまずいようなことなのだろうか。
そんなことを敢えて言ってしまうということは、私は個人的にははずかしいようなことだと主観としては思っているのだと思う。
でも、ここでは、今日は書いてみよう。友達がいないということを。
そもそも、私は、友達というものの必要性を感じない人間なのだ。
「ボスさんって、さみしい人・・」と言われるかもしれませんが、そうなんですよ。
で、今まで、友達がいない、ということで困ったことがない。さみしいと思ったこともない。
友達がいないこととさみしいことは私の中ではまったくつながらない。
他人がよく言う「友達がいない人はさみしい」という感覚はまったくない。
自分のことは自分で対応するし、必要に応じてしかるべき人らの意見や判断を参考に求めることはあることはあったかもしれない。
原則、自分のことは自分で判断、決定する。
行動も同じ。
友達というものがいたら、友達のことも考慮しなければならない。
そうした中で、同性の友達というものは絶対必要としない。
ありえない。
よく、同性どうしでご飯を食べに行くとか、ツーリングするとか、そんなことは私にとってありえないこと。
お断りする。行きたくない。
そんな人なんですよ。私は。
でも、決して、同性どうしで行動することがある方々を否定的に思うわけではありません。
それはむしろ、あって当たり前、ふつうのことです。
同時に、そのような行動をしない人も、あって当然。ふつうのこと。
私にとって同性、男性は、言うなればライバルみたいな、いつ攻撃されるかわからない、みたいな、安心できない、鼻持ちならない、みたいな、そんな油断がならないもの。
親しくなるのも何かいやなんですよね。そういう存在。
話がだいぶずれましたが、私はFacebookを必要とする人間ではないということなんですよ。
Facebookがどんなものなのか、当然、すべてわかって言っているわけではありませんが、やっぱり私にとってはFacebookは必要ない。そう思ったことでした。
いやしかし。Facebookって、個人情報のるつぼですよね。
あれって、はまってしまえば身動きとれなくなるんじゃないでしょうか。
時間もとられるし。
きっと、はまればにっちもさっちも行かなくなるような気がする。
あと、超天才ハッカーとかが、Facebookシステムの個人情報を入手したりできると、大変なことになるんじゃないでしょうか。
そもそも、私の考えや行動とかが、情報をシェアする人は選ぶことができるとは言え、個人を特定されながら見られるのがこわい。はずかしい。
情報の押し売りみたいなことや、反対に情報や意見、感想等の催促をされるような雰囲気があることが日常になったりすることがあれば煩わしいし。
何か無意識のうちに義務みたいな制約、気持ちができてしまうことがあるのではないかという心配もあるし。
Facebookの仕組みに誤解があるかもしれないけれど。
とにかく、Facebook、私は退会しました。
これからの人生・有限の人生、情報機器、ネットワークの断捨離も必要、そもそも断捨離以前に、持たない、抱え込まないことも必要だと、個人的に思ったりしているボスでした。
今日の話はまどろっこしいものでした。
お口直しに画像のイチゴ、どうぞ。