ゆいなん
2018-1-24 23:00
甘噛み
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甘噛み
甘噛み
空っぽのかごを山積みにして狭い通路を封鎖した。
こんなささやかな抵抗は簡単に崩せる。崩したければ崩せばいい。
終演後の楽屋では、写真を撮ったり着替えたりスマホをチェックしたりと一人ひとりが自分の時間に没頭している。
私はようやく手首をつかんだ人気者の彩希を、ずらりと並んだロッカーの死角に引き込んだ。
小さな画面に忙しそうに文字を打ち込んでいた彩希は、ぶつぶつ言いながらも結局ここまでついてきた。「何?」と訊ねた声を、ロッカーのスチールを打ちつけた豪快な音がかき消した。スマホが手からこぼれ落ちた。
小さな画面に忙しそうに文字を打ち込んでいた彩希は、ぶつぶつ言いながらも結局ここまでついてきた。「何?」と訊ねた声を、ロッカーのスチールを打ちつけた豪快な音がかき消した。スマホが手からこぼれ落ちた。
むりやり唇を重ねた瞬間に薄めに見た彩希は、背中を押し付けられた衝撃で顔を歪めていた。
「…ちょっと…なに?」
怒りまじりの面倒くさそうな声を殺すように、柔らかい首の肌に歯を立てた。
「やだ、痛い痛い」
尖った歯が柔らかい肌を押す。痛いと言ってるけど力は全然入れてないから、痛くなる予定なだけで今はまだそんなに痛くないはず。
私が背伸びに疲れてかかとを下ろすと甘噛みをひっぱるような格好になったから、痛がったのかもしれない。パチンと腕を叩かれて一度口を離した。
うっすらと赤くなった歯の痕に舌先を当てて軽く舐めた。もなかになったみたいだと思った。
「ねえ、やだってば」
二の腕を押し返されながら、また同じ場所に歯をかぶりつく。顎に力を込めて噛んでいくうちに、肌の上をすべった歯先が赤い痕に重なる。走る痛みを私は想像する。鳥肌が立つ。
怖気づいた彩希はロッカーに背を預けて、腕の押し合いをしながらゆるゆると座り込んだ。
「痛っ!ほんと、…痛いから」
中身の詰まっていないスチールの扉がガタガタとうるさい音を立てる。
男兄弟と育った私がムキになった時の力を馬鹿にされては困る。顔に手が当たったって腕がねじれたって関係ない。動くな。ただそれだけの力で押さえつける。
腿に爪を立てて軽く食い込ませると、床に座り込んだ身体がぴくっと震えた。
そしてまたゆっくりと歯を立てる。噛みついたまま剥き出しになっている歯が乾いてくると肌に張り付いて、わずかに動くたびに八重歯が白い肌を熱の帯びた赤に染めた。
少しでも動いたら力を入れる。これを繰り返すと相手は次第に動かなくなる。捕らえた獲物が生きるのを諦めて猛獣に食われるドキュメンタリ番組を思い浮かべる。
サバンナじゃない都会の片隅で、今、その儀式は執り行われている。殺さないけど。
なんのために?
傷つけるため?
サバンナじゃない都会の片隅で、今、その儀式は執り行われている。殺さないけど。
なんのために?
傷つけるため?
「ゆいりー、どこ行ったー?」
メンバーの呑気な声と、靴下の脚が近づいてくる音のない足音。
「ねえ、やだ……あやな…」
嫌なら嫌と突き放して叫べばいいのに、頬を思いっきり打てばいいのに、それができない。彩希が本気で力を出したら私は敵うわけないのに。
優しい彩希がどこまで受け入れてくれるのか、私は黙って試している。
白い太腿の上に押さえつけて制した右手を、精一杯優しく撫でてから指を絡めて繋いだ。
大人しくなったご褒美に唇を押し当ててから、もう一度甘く噛んで、歯を合わせた。
「うああ」
彩希は息を押し殺して叫んだ。公演終わりで汗ばんだ首を固く強張らせて、痛みを発散するように私の腕に爪を立てた。
もしも裸で受けとめていたら気持ちいいくらい痛かっただろう。そんな快感を想像したらまたキスをしたくなって、唇を求めた。彩希の目の端はうっすらと濡れていた。
いっそこのまま食べてしまおうか。理性と情を捨てたら人が人の肉を噛みちぎるくらい簡単にできてしまうだろう。彩希の肉の味を想像する。とろけそうなほど豊かで柔らかい。無意識にあたたかい胸のふくらみに手が伸びた。
彩希は震える熱い息を吐く。痛みに耐え続けて呼吸が浅くなっているから、声を奪われてうまく話せない。
「…だれか、…来る……」
「知らない」
スポットライトの下でキスを交わしてしまうあなたなら、このくらい人に見られたって大したことないでしょう?
気の向くまま、私は痛みの伴う口づけを続けた。
積んでいたプラスチックのかごはパタパタと取り払われていった。
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積んでいたプラスチックのかごはパタパタと取り払われていった。
楽屋の喧騒と彩希を探す声がなだれ込んできて、危うい独占欲で紡ぎ出していたヒリヒリとした心地よさは、現実との温度差にあっけなく壊れてしまった。
誰かの視線が背中に刺さった。
誰かの視線が背中に刺さった。
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