ゆいりの背中に翼があった頃の、ゆいりと彩奈の話。
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ゆいりの背中に翼があった頃の、ゆいりと彩奈の話。
Confession
***
彩奈はゆいりのことを天使と言った。
部屋の中に背を向けてベランダの欄干にしゃがみこんでいると、その羽根の曲線の山を撫でた。
羽根を撫でる時、彩奈は優しい眼をするから、
この時間がずっと続いてほしいと想いながら、ゆいりはただマンションの横を通って行く車たちを見降ろしていた。
物干しざおにかけられた洗濯物が風に揺れて、いいにおいが鼻に届く。
彩奈と同じにおいだ。
「羽根って邪魔じゃない?」
彩奈はおかしなことを聞く。
「何言ってるんだよ。羽根がなかったら鳥じゃないだろう?」
「寝る時、邪魔じゃないの?」
「丸まって寝るから邪魔じゃない」
ゆいりが答えると、彩奈は不思議そうな顔をした。ゆいりも不思議そうな顔になった。
人間は丸まって眠らないのだ。
ベランダから見える狭い空と灰色の道路を、ゆいりは見比べた。
黒いカラスが一羽下りてきて、慣れたようにアスファルトの上を歩いている。
彩奈もたぶん、同じものを見ていた。
「でもゆいりは、羽根がなくなったら人間になれるよ」
「鳥が人間になんかなるわけない」
「翼の折れた天使」
「だからテンシじゃないってば」
想像しただけでぶるぶると身が震えた。
世界はこんなに広いっていうのに、決まった道で決まった場所にしか行けない人間になど、なりたくない。
人に羽根の生えたテンシなんか、見たこともないし。
「いいなー。私も羽根ほしい」
さっきは邪魔って言ったくせに。
彩奈はベランダの欄干に伏せて、気持ち良さそうに眼を閉じている。
手を伸ばして撫でてやったら、猫みたいに喜ぶだろうか。
ゆいりは彩奈の頭に手を置いた。茶色い髪が陽の熱を含んでぽかぽかする。彩奈が太陽になったみたいだ。
「彩奈」
「んー?」
「もしも僕がテンシだったら、どうするの?」
「えーなにそれ」
笑ってごまかされた。何それって、彩奈が言ったんじゃないか。
「うーん……空、飛んでみたいなぁ」
楽しい時もあきれた時もちょっと怒った時も、
こうして笑顔になれるなら、それは彩奈はきちんと生きている時だ。
それがゆいりにもわかってきた。
鳥がたどる道には何かしらの意味がある。
でも、どうして自分が彩奈のところに飛んできたのか、ゆいりにはわからなかった。
彩奈は、ゆいりが姿を現しても驚かなかった。
ベッドの上に横になって、動かなかった。目は両方とも開いていて、呼吸をしていた。
どこか何も知らない場所を乞う眼をしていた。
たとえ何が起こっても、たとえば夜中の午前三時に朝日がのぼってきたとしても、関心を示さないのではないかというくらいに無気力だった。
むしろ、突然なにか非現実的なことが起こるのを望んでいたかのように、ゆいりを見上げていた。
「羽根」
彩奈のぼんやりとした真っ暗な瞳に、白い影がはっきりと映ったのがわかった。
うっすらとした明るい声が、少しこわかった。
だらりと垂れていた彼女の右腕が伸びてきて、ゆいりの羽根に触れた。
「濡れてる」
外は突然の雨が打ちつけていた。
ゆいりの羽根を上から下に一筆書きで撫でると、彩奈の手は、ゆいりの手の甲に下りてきた。熱を帯びている。
「君も雨だよ」
彼女の頬も濡れていた。それは冷たくも温かくもなかった。
彩奈はゆいりの指先を目の端で追いかけた。
「これは違うよ」
見たところによると、あまり動こうとしない。病気だろうか。
「ちゃんと生きられないんだ、私」
ちゃんと、生きる?
「もう生きてるじゃないか」
「死んでるよ」
何を言っているんだ?
「心臓は動いてるでしょ?」
ゆいりが言うと、彩奈は笑った。ゆいりは自分がおかしなことを言っているのかと混乱した。
「違うの?」
「そういう話じゃないんだよ。人間は」
どうして笑うんだろう?ムカつく。そんなこと言ったら、心臓が動いている僕だって死んでるじゃないか。
ゆいりには全然理解できない。
でも、どうして自分が苛立っているのかも、理解できなかった。
彩奈は表情を失くす。
それまでどうやって笑ったり泣いたりしてたかを、まるで忘れてしまったみたいに空っぽになる。
今日は生きてる。今日は死んでる。
そんな占いをくり返してるうちに、いつかの朝がめぐってきたら、
日に照らされた部屋から影がなくなるように、彩奈がいなくなってしまうのではないか。
そんなはずはない。彩奈の心臓はきちんと動いて、生きている。
でもゆいりは全然落ち着くことができない。
彩奈が傍にいないとざわざわして、いても立ってもいられない。
彩奈がいなくなってしまうのはとても寂しい。
でも長くはここに居られない。
ゆいりは鳥だからだ。 人間が平然と吸っている地上付近の空気には、多分に汚れが混ざっている。
真っ暗な夜のこの部屋。
彩奈は何かを思い立ったように立ちあがって、棚の中をごそごそやっている。
夜なのに電気をつけていないから、ゆいりにはよく見えない。懸命に彩奈の影を目で追う。
彩奈は白い紙袋から取り出した銀の包みを、指で器用に押し出している。
そのたびに、白い粒がおちてきた。銀の包みは穴だらけになっていく。
白い粒は山も作れずに広がって、わずかな振動でいつまでもかたかたと揺れている。
「それ、いつも眠る前に飲むやつだね」
「そう、寝るの」
「眠れないの?」
「一生眠りたいの」
よく意味がわからなくて、ゆいりは首を傾げた。
どういうことか知りたくて近づいた。
会話が途切れた理由を悟った彩奈は、面倒くさそうに溜め息をついた。
「彩奈?」
しゃがみこんだ。乱暴な音を立てて、棚の扉を開け閉めした。手に何か持っている。
刃物だ。
「こないで」
彩奈は刃物を突き出しながら言った。こんなことは初めてだった。
とても危険なものだ。人間が動物を殺したり切ったりする時に使う道具だ。
「これ飲んで死ぬから」
彩奈は、僕を近づけないようにしてるんだ。
「生きていたくないの?」
「生んでほしいなんて頼んでない」
こわかった。とても。悪い夢だと思いたいくらい。逃げ出したいくらい。
でも、示さなくてはいけない。何もしないわけにいかない。
言わなくてはいけない。
ゆいりが近づくと、彩奈は刃物を握り直す。
恐ろしい銀色がちらつく。
でも、もし今言わなかったら、この気持ちはなかったことになる。ゆいりはそう思った。
すばやく彩奈の手首を捕らえると、ゆいりの握力が勝って、小さな手から刃物が床に落ちた。
大きなうるさい音がした。
「なんで邪魔するの。ほっといてよ」
彩奈は言葉で言うほど、抵抗しなかった。
両方の手首を掴んだまま、ゆいりはどうしたらいいかを考える。
身体を近づけた。彩奈は後ずさりして、壁にトンと背中をぶつけた。ゆいりの身体が追いついた。
「彩奈」
自分でも驚くほど優しい声がして、張りつめた暗闇に柔らかく響いた。
ゆいりは彩奈の肩にあごを乗せた。小さいから少しかがんだ。
吸い込むようにして鼻を押し付けて、頬ずりする。
彩奈の匂いだ。
大丈夫、ちゃんと生きてる。
ぎゅっと抱きしめる。柔らかな彩奈の体温、肌、匂い、息遣い。
彩奈はじっとして動かない。
どうでもいいはずだった。
好きとか嫌いとか、人間が抱く面倒くさい感情は、よくわからない。
でも、こんなにも傍に居たいのに、どうして別々の個体でないといけないのか。
いっそひとつになって、離れなければいい。
「僕が彩奈の天使になるから、だから、どこにもいかないで」
消えないで、消えないで、消えないで、彩奈
彩奈の肩から力が抜けていくのがわかった。
そして、彩奈は信じられないほど泣いた。声を上げて。
ゆいりがいなければ、膝から崩れてしゃがみこんでしまうだろう。
こんな小さな身体から、たくさんの雨が降った。
どこかに隠れていた雨雲は、水たまりができそうなくらいに彩奈を泣かせた。
ゆいりはただ、抱きしめることしかできない。
彼女のつらさを背負うことはできない。
背負うことはできないけど、溶かすことならできる。
ゆいりが本当に、天使になれたのなら。
彩奈を抱き上げて、ベッドへ運んだ。
疲れてるんだ。眠るといい。
こんな雨上がりの夜なら、いい夢を見られるだろう。
彩奈の身体をベッドに下ろす。
でも、両腕はゆいりの首を離れなかった。
腕でできた輪を壊してしまわないように、ゆいりはゆっくりと膝をついた。
「ここに居て」
弱々しい声が、ゆいりと彩奈の間で空気を揺らした。
彩奈がさっきよりももっと両腕を狭めてきて、
難しい態勢がきつくなってきたゆいりは、彩奈の横に手をついた。
近い。
暗い部屋の中で、彩奈の黒目に光が入った。
白い影が見えて、自分の姿が映り込んでいるんだと、ゆいりにわかった。
熱い両手が頬を包む。
水たまりのように深く揺らめいていた瞳が細くなる。
羽根を撫でてくれる時よりもうんと優しい眼をしてから、彩奈はゆっくりとゆいりと唇を重ねた。
「ゆいり」
街の音もなにも聞こえなくて、とても静かだった。
ただ空気だけが流れていて、彩奈の呼ぶ声を耳に届けた。
唇から離れると、彩奈はゆいりの腕にすがりつくようにして目を閉じた。
「おやすみ」
撫でてあげたその髪は、月のように穏やかだった。
彩奈の頬に唇を寄せて、ゆいりも目を閉じた。
世界がゆいりと彩奈だけになった。
眠りへいざなう呼吸が、ひとつ、またひとつ、くり返される。
こうやって彩奈の毎日が、ひとつずつくり返されてほしい。
僕の羽根を君にあげる。だから、生きて。
音楽が終わった後のような静寂が、ふいに下りてきた。
急に心細くなってきて、彩奈の存在を確かめた。
大丈夫。ちゃんと居る。
その頬に手を伸ばした時、彩奈と重なる自分の身体が透けていることに、ゆいりは気が付いた。
静かに脈が速くなる。
身体の感覚が目の前の景色からどんどん離れていって、彩奈とは違う次元へと遠のいていく。
カーテンが半開きになった窓が、夜の街を透かせて、漆黒の鏡になっていた。
ぐらつく意識の中で、ゆいりはそこに映った自分の姿を見た。
左の羽根がない。
背中が焼けるように、痛い。痛い。痛い。
羽根をむしり取られるイメージが、ゆいりの中に浮かんだ。
大きな大きなその手の主は誰だろう?
ゆいりはこの時に一度だけ、人間になりたいと思った。
腕の中で、彩奈はぐっすりと眠っている。
幸せそうに微笑んで見える。
ゆいりは彩奈を抱きしめる。
この身体がどんどん溶けていって、ひとつになれるように。
この羽根が彩奈を守りますように。
この羽根が、彩奈に広い世界を見せてくれますように。
どこかの場所で、彼女が笑い方を忘れないで生きられますように。
そして、もう泣かないように、僕をわすれて――――
大事な願いだけを部屋に残して、
ゆいりは白い闇に堕ちた。
***