更新したつもりで半年過ごしてたら更新してなかったやつです(ヽ´ω`)
私の頭の中のえんぴつはこわいです。
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それはファンタジー。 【※閲覧パスはプロフを参照!】
エリアN 09.
ユカの本当の名前は、有華。
有り無しの『有』に、難しいほうの花『華』で、有華。
ある日、有華は事故を起こした。
ものすごいスピードでバイクを走らせて、前の車を追い越そうとしたところで対向車線の乗用車と衝突した。
夜の河をまたぐ橋の上だった。
バイクから放り出された有華はアスファルトの道路に身体を強打したと思うと、固い地面に血を流して倒れている自分を見降ろしていた。
「有華」から「ユカ」が乖離したことを自覚した最初の瞬間だった。
この時から、有華はユカになった。
幽霊になったんだと思いきや、空中に浮遊しているわけでもなかった。
足は地面についているし物理的にしっかり“身体”がある。
ただどうやら通行人には見えていないようだった。みんなが倒れた有華に必死になっていた。
ユカはぐしゃぐしゃに潰れたバイクから鍵を抜いた。キーホルダーの束ごと握りしめた。
これだけは手放すわけにいかない。とても大切なものだ。
河は夜の闇をそのまま吸い込んだような黒で、
長細く反射した橋の外灯の光は河の一部として溶け込めずに水面にぷかぷかと漂っているようだった。
左右に等間隔の外灯が続き、空のふもとまでまっすぐ延びる河は、強い引力でユカを引きずり込もうと誘う。
にげるならいまだ
何から?
来た道を確かめるようにしてユカが振り返ると、そこには限界を越えた末に望んだとおりの交通事故を起こして倒れている自分と、あらぬ形に歪んでしまった愛車が転がっている。
壊すだけ壊したこの現実から、にげるならいまだ。
たまたま破けた心臓の穴からあたたかい血を逃がして、そのまま死んでしまおう。
高ぶる鼓動に交じって鼓膜の裏まで届いた内なる声がそう囁いたのをユカは聞いた。
そうして、ユカは見たこともない闇に落ちていった。
有華はユカを見ていた。まぶたを閉じていても脳が機能を停止していてもその光景は有華の意識にはっきりと届いた。
「いっていいよ」とも「いかないで」とも聞こえた。もしかしたらどちらでもなかったのかもしれない。
有華は影であるユカは迷わず捨てた。
有華は意識不明に陥り、昏睡状態になった。
こうして眠ったままの実体『有華』をあっちの世界に置いて『ユカ』はここにやって来た。
“ふたり”は完全に決別したのだ。
「決別した?」
「そう。で、有華から離れたユカがこっちの世界でのらくらやってるよーってこと」
智美は、ユカの説明を頭でひとつひとつ噛み砕いていく。
「あっちの有華は今どうしてるの?死んでないんでしょ?」
「あー…ベッドで寝てるんじゃん?」
「ずっと?」
「多分そう」
他人事……。生死をさまよった人間らしいシリアスな色が欠けている。
こういうやつは何度生まれ変わって何度死にかけたってこんな調子なのかもしれない。
輪っかになった黒革の帯には、キーホルダーのリングがついていて、その輪1つにつき鍵が1つ取り付けられていた。
鍵がついた輪が5つあって、なにも付いていない空の輪は2つ。
ユカはそれをベンチに座る智美の横に並べていた。
黒革のホルダーを幹にして、掌の指みたいな形にひとつひとつの鍵を丁寧に広げていく。
「後で知ったんだけど、あっちの世界の自分の物を持ち歩いてればそれが影の代わりになってくれるから、こっちで影ができないんだ。
だから「あっちの世界では死んでる」ってウソを付ける。
自分の物をなにかひとつでも持ってれば消えるよ」
智美の足元には長く黒い影がしっかりと貼り付いていた。
智美がこっちの世界に持ってきた物はバッグの中にたくさん入っていたが、すべてユカの部屋に置いてきていた。
携帯電話も電車の定期券も学生証もここでは何の役にも立たない。
「多分、明日香にバレてんだ。そろそろやばい」
「ユカのこと?」
「おれのことも、あんたのことも」
「影があるって、そんなにまずいことなの?」
「影をもつ人間がこっちの世界に居てはいけない。一晩ならともかく、ずっといるのは本当はいけないことなんだ」
ユカはケータイの画面を見せてきた。
黒く光る画面の中に無数の白い線が張り巡らされていて、ポツリと赤い光が一点。
「あんたの影、今はある。だからほら、光ってるでしょ」
表示されているのはどうやら地図で、バスケットコートの矩形の隅に光っている赤いのが智美らしい。
「なんでそんな大事なこと言ってくれなかったの?
何かもってれば影が消えるなんてことも、長居するのがタブーだってことも今知ったよ」
私がここにきて何日経ったんだろう?
夕陽も沈まないし朝日ものぼらないから“一晩”も“二晩”もないが、
智美はここにきてから3度の睡眠をとった。おそらく、今がこっちの世界でいう4日目くらい。
「まさかあんたが自分のもの何も持ってないなんて思わなかったんだよ。服くらい自分の着るだろ普通。
ここにきてすぐにアヤカが洗濯してくれて、そのままになってる。きっとあんたのバッグのところにあるんじゃないの」
智美はあっちの世界での自分のものを持っていてはいけないんだと思い込んでいた。
服はずっとユカのジャージやシャツを勝手に選んで着ていた。もちろんユカは文句を言わない。
「それでもひとつあんたが自分のもの使ってるだろ」
「…あ」
下着だ。
こればっかりはどうしようもなくて、洗濯して干してをくり返して使っている。
「ローテーションでいくとあんたが自分のを身につけてない日がある。ちなみに今日はつけてない日だ。だから今、影がある」
「ヘンタイ」
なんでそんなこと把握してんだこの人は。
「その明日香って人も気づいてないんじゃないの?」
「いや、あいつは違う。この世界の不法侵入者を監視する仕事をしにくるんだ」
「不法侵入者?」
途端に自分がいてはいけない存在であるような緊張感を智美は感じた。
死ぬことも警察も軽くかわしてしまうユカが、明日香という人物をとても恐れていることがよくわかった。
智美のところにその明日香本人やその取り締まり組織の人間が姿を表わさないのは、ユカが彼らに信用されているからだろう。
それもすべてユカの嘘なのだけど。その嘘すら見透かしているような冷徹な印象を、智美は感じとった。
「あいつは頭も良い。おれがこっちにいることを許可してくれたし、そのおれが庇ってる人がどんなやつかだって全部わかってるはずだ」
ユカは深いため息をついて、鍵のひとつを慎重に外した。
「これ持ってろ」
「でも私の物じゃないよ?」
「大丈夫、それは魔法の鍵だから」
「魔法の鍵?」
「いーから」
縦に深い溝が走っていて、片側の側面にはいくつかの凹凸がある一般的な玄関の鍵のようだ。
掌に握らされた銀色の鈍い輝きを見降ろす智美の視界から、早々と自分の影が消えていることがわかった。
白いアスファルトが少しまぶしかった。
「失くすなよ」
「わかった」
一方的に押し付けられてむすっとした顔になった自分が簡単に想像できた。
ユカはボールを取りに腰をあげた。
なんだか懐かしかった。
→10.