「人魚の血を飲むと不老不死になるんだって」
人魚姫の絵本をぱらぱらと指で捲りながら、マリが言う。細く白い指だ。ツリーハウスの西陽から差し込む光がその輪郭をぼやけさせるので、ひどく現実感がない。読む気のない指の動きのせいもあるのだろうか。たかだか20ページの子供向け絵本の中身など、暗記してしまった。その中には人魚の血が不老不死をもたらすなどとは書いていなかったはずだ。それどころか彼女は泡になって消える。いや、泡になったのならば自然と同じになり、不老不死になっているということなのか。それを言ってしまえば人間だっていつかは土に還り、新たな命を生む。全ての生物は地球という一つのいきものとなり、不老不死になるのだが。
「そうなんだ、知らなかった」
「日本では有名な伝説なんだって」
「不死は兎も角、不老は欲しがる人はいそうだね」
「でもね、人魚を食べてしまった人はその後、生きることに疲れて、暗くて狭いところに自らを閉じ込めて食を絶つことで死んでしまうの」
それって棺桶みたいよね、と寂しそうにマリは笑う。永遠を求めた代償に自らを永遠の暗闇に閉じ込められるなんて、皮肉な伝説だと思った。
永遠に生きる、か。
それはどんな孤独だろう。俺には大切な人がいる。目の前にいる彼女は勿論、弟のケル、父、母、親友のサニー、オーブリー、バジル、かわいいヘクトール。その全てが、自分を置いて、老いて、死んでいってしまう。取り残された時のことを少し考えただけで、鼻の奥がつんとする。このかなしみが永遠に続くなら、狂ってしまうかもしれない。
「人魚が死んでしまうまで食べなければ、その人は人魚と2人きりで永遠を生きれたのかな。」
「さぁ、どうなんだろう。でもさ、ずっと2人きりっていうのも、きっと1人で生きるのと同じくらい、孤独だよ。」
その人しかいないと愛し続けて、その人の肉を食べ、血を飲んだら、きっと2人は限り無く1人になる。と、マリは言う。そういうものか、と所在無さげなマリの手元をぼぅっと見てみると、彼女の白い指が夕日に照らされ赤くなっている。その中でも細い線のように際立つ椿のような赤がある。どうやら絵本のページの端で指が切れたらしい。手当てを、と動く前にマリが口を開く。花が開くようで綺麗だ。
「ところで、ねぇ、ヒロ」
「ん?」
「私が実は人魚だって言ったら、どうする?」
マリが人魚だったら?
徐に体勢を変え、テーブルの上の皿の上のクッキーの上に、マリの手が運ばれる。
マリの手は美しい白だ。その手はやさしく弟の頭を撫でる。その手は正しく皆を導く。その手は過ちから人を救う。その手は美味しいクッキーを焼く。
マリのクッキーは愛が込められているから美味しいのだ。そのクッキーに彼女の赤い手の傷口から出た血が滴る。ゆっくりと、スローモーションで、落ちる。赤い。椿の花が落ちるみたいに。
「このクッキーを、あなたは食べられる?」
マリがもし人魚だとしたら、このクッキーを食べれば俺は不老不死になる。マリと永遠に2人で、孤独を生きることになる。
マリが人魚でないとしたら、俺は死ぬべき時に死んで、彼女もまた死ぬべき時に死ぬのだろう。神様の決めた通りに。
答えなんて決まっている。俺は滲む赤のついたクッキーを口にした。いつもと同じ、美味しいクッキー。マリは満足したように笑った。
「ヒロのおばかさん。」
可哀想なものを見るような、憐れむ彼女の視線に、愛しさを覚えて、俺はばかでもいいよと思えた。本当に、愚かで考えなしの若さがそこにあった。人魚を食べた人間と同じく愚かしい。可哀想で、憐れな、お馬鹿さんだった。
マリが人魚だったのか、そうでなかったのかは、今も分からない。
マリが人魚でないからマリは死んだのだ。俺の背が伸びているのも彼女が人魚でなかった証拠だ。と言われれば、なるほどそうなのだろう。
けれど、彼女が土に還り、永遠の存在になったのに1人生きなければいけないこの孤独は、まるで永遠のように長いのだ。彼女が人魚だったと言われても、信じてしまう。ならば俺はいつかこの生に疲れ、食を絶ち、暗く狭い場所に己を閉じ込めて、死ぬのだろうか。マリの語ったあの伝説のように。
2人で永遠に生きられるなら、それもいいと思えた。けれど君を愚かさから喪って1人きりで生きるには、人の一生は長すぎるよ。
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ヒロマリ(omori)
血液を舐めるのは感染症の危険もあるので良くないよ。