私が私に会う日まで(終)

私には幼い頃から、時おり襲ってくるフラッシュバックのようなものがありました。何かが目の前で爆発をするような、あるいは何か巨大なものと衝突をするような感覚のものです。

それが前触れもなく急に起こるんですよ。その瞬間は「うっ」となって目を瞑ったり、酷いときは動悸もして、ひとたび動悸が始まれば落ち着くまでに時間がかかるんです。これはいったい何なのだろうと、ずっと悩んでいました。

ところがどういうわけか、自分の前世と向き合うようになってからは、それが嘘のように無くなったんです。本当に無くなったのかどうかは分かりませんけれど、少なくともここ数年は一度もありません。

私は、人との出逢いにより自分の前世が分かって以来、自分はちゃんと供養をしてもらえたのだろうかと疑問を抱いていたところがあって、自分自身のためにも意識的にお経を読んでいたところがあったんですね。もしかしたら、それが供養に繋がったのかも分からない。

前回の参加から今回の参加に至るまでに、ちょうど3年間の空白がありました。そのうちには大切な人を亡くしたり、また新たに大切な人と出会ったりと、非常に気持ちが揺るがされた3年間でありました。前回と今回とでは、志すものは同じでも、参加に対する心持ちは全く違ったように思います。

働いて食べてを繰り返す、この地味で冴えない日常生活の中には、愛する人たちの存在があり、好きなものがあり、自分でなければ出会うことがなかったであろう多くの喜びがあって、それを思うと、ふと意味もなく嬉しくなる時があります。

戦争というものは、つまりそれらを一瞬にして壊して、奪っていくんですよね。私は思いました。自分として生きているこの日常を戦争なんかで壊されたくはないと。それはとても残酷で、悲しいことであると。

その昔、地を駆ける兵士の姿に憧れて、それがきっかけで私は戦争の話に関心を持つようになりました。当時は一般市民の目から見た戦争というものが一体どのようなものであったのかなんて考えた事はほとんど無かった。しかしいずれは気づくことになるのです。それこそが重要であり、根本であるということを。

活動を数日後に控えたころに北朝鮮がミサイルを発射して、それは沖縄上空を通過しました。世間は北朝鮮を非難し、嘲笑します。なんちゃって私もそのうちの一人でしたが、今の北朝鮮の姿は紛れもなく一昔前の日本の姿であるのです。北朝鮮がこのまま国民を犠牲にして戦争に邁進するならば、恐らく大敗が待っているのではないでしょうか。



この活動は自分の意思だけで参加できるものではないことを改めて実感しました。第一に家族の理解が必要なんですよね。今回も、参加の意思を伝えましたら母親は酷く泣きそうになりました。「何でお前なの?」と。

自分でも思う、どうして私なんだろうと。べつに隣りの部屋に住んでいる人でも良いじゃないかと。だけど、それはその人の運命なんですよ。自分のこれまでの半生が何よりそれを物語っていますから、反論の仕様が無いのです。

どうしてか将来は山形と沖縄に行こうと心に決めていた学生時代でした。あの頃には既に、時は少しずつ動いていたのだと思います。今でも、とても不思議な気がしてなりません。

私が私に会う日まで(後編)

2日目のことでした。活動を終えた後にメンバーの方々にお願いをして真栄里に連れて行っていただいたのです。他のメンバーは昨年の活動で既に真栄里を訪れていたのですが、それでも私の勝手を快く受け入れてくださいまして、それはもう有り難いの一言でした。

真栄里は国吉、喜屋武と同じく、糸満市内に位置しています。のどかな田舎道を入っていった茂みの中に、山形や白梅をはじめとした幾つかの慰霊碑塔がひっそりと立っているのです。最大の目的であった山形の塔に線香を手向け、手を合わせました。お疲れ様でしたと、安らかにお眠りくださいと。

懐かしいとか、何かを強く感じたとか、特別そういったものは無かったのですが、塔にいたときは全く気にならなかった傍のサトウキビの揺れる音が、帰ろうと背を向けた直後から異常に耳につき始めたんですね。

気になって何度も振り返り見ていたら悲しくなってきたから、最後は振り返るのを止めましたけれど。時は夕方で日も傾き始めていた頃でしたから、それもまた寂しさを一層させました。

山形歩兵第32連隊にこだわったもので、メンバーの方々が不思議そうな顔をしながら理由を尋ねてこられたのですが、さすがに理由は答えることが出来ずに、ただ頭を下げるばかりでした。

活動の後で聞いた当時の詳しい戦況の話によりますと、この真栄里は主に愛媛歩兵第22連隊が陣を敷いて戦っていたそうなのです。山形歩兵第32連隊は真栄里から少し離れた国吉で戦っていたとのこと。

32連隊が最後に軍旗を奉焼した場所が真栄里であり、事実上は真栄里がこの部隊の終焉の地となったそうです。

今回の活動で1日目に行きました国吉の丘陵が、まさに32連隊が戦闘を繰り広げていた場所であったということになります。

当時を知っている地元オバアの証言によりますと、32連隊の兵員は穏やかで地元住民とも仲良くやっていたそうなんです。当時、沖縄の住民にとっては日本軍もアメリカ軍と同じくらい、人によってはアメリカ軍の方が良心的だったとさえ語るほど、日本軍は質が悪かったそうなんですね。

そういうこともあってか、この国吉では一般住民の死亡者は圧倒的に少ないとのことでした。

私が私に会う日まで(前編)

戦没者遺骨収集活動に参加をするべく、10日〜13日まで3泊4日で沖縄県に行って参りました。今回が2度目の参加となります。メンバーも大半が同じ顔ぶれでしたので馴染みがありました。

3日間のうちで私が活動に参加をしたのは2日間です。ヘルメットや採掘の道具を借りるため、この道60年余りの大ベテランである国吉勇(くによし・いさむ)さんの戦争資料館を訪れたところから始まりました。

1日目は国吉の丘陵で、2日目は初潜入であった喜屋武の丘陵で、いずれも糸満市内での活動でありました。

1日目の国吉では、自分が手掛けていた場所からは遺骨らしい遺骨は発見されなかったのですが、不発の手榴弾が出てきましてゾっとしました。また、一緒に作業をしていた女性が手掛けていた場所からは名字が彫られた水筒が出てきました。

2日目の喜屋武では、一歩踏み入れた傍から遺骨だらけで、どこから手をつけたら良いのかが逆に分からなくなったほど。

いずれにしましても道なきジャングルの中を手探りで前進していかなければなりませんから、足場も悪く危険ですし、また壕の中に入るのも一苦労で、入っても苦労で、体力面でも精神面でも過酷を極めますから冗談ではなく辛いです。

一時は、足を踏み外して急斜面から滑り落ちそうになったところを助けられまして、それこそ「ファイト一発」のアレみたいな感じになりました。

今回は行く先々でJ Y M A (日本青年遺骨収集団)の学生さんたちともお会いをしましたが、皆さん若くてエネルギッシュなんですよね。すれ違うたびに元気よく「お疲れ様です」と挨拶をいただきましたが、方や私なんかはもう心身ともにくたびれてしまって、まともに挨拶を返せる状態ではなかったんです。何らかの差を痛感させられました。
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プロフィール
ギルドさんのプロフィール
性 別 女性
年 齢 36
地 域 青森県
系 統 普通系