ぽた、ぽた、と雫が滴り落ちる。
白々とした月の光の中、赤い雫がぽたぽたと。
紅に塗れた自身の武器を軽く振るって、白銀の髪の青年はふう、と一つ息をした。
足元に転がっているのは、体格の良い男の骸。
たった今、彼が仕留めたその男は、ここ数週間ディアロ城の城下町で年若い女性を襲っては海外へ売り飛ばしている悪党である。
証拠を残さず、見つかったとしても護衛として付いていた者を皆殺しにしながら犯罪に手を染め続けたその男は、なかなかに捕らえられずにいたらしい。
城に滞在しながらそれを聞いた彼……倫は、一人、その討伐に来たのである。
情報収集はお手のもの。
国を渡り、妹の仇を探し続けたことに比べれば容易いものだった。
……その後の対応も。
至極当然のことながら、相手も抵抗した。
倫も背丈はあるが、体格はそこまで良くない。
殴りつけられて打撲程度の傷は負った。
その様を見て、男は笑った。
お前のような優男に倒されるはずがない、と。
暫し良いように倫を嬲った男だったが……
けれども、それでやられっぱなしになる倫ではない。
隙をみて、自身の暗器で急所を刺した。
それ以上の抵抗は許さず、力尽きた男の体を押し除け、立ち上がった倫は冷たい目でその骸を見下ろしていた。
しんと静まり返った空間で、彼はふっと笑みを浮かべる。
「この国にも、悪い奴はいるんだよなぁ……意外と言うか、まぁ当然と言えば当然か……」
この国は平和だ。
遠い異国から来た自分たちを何の躊躇いもなく受け入れ、面倒を見てくれているくらいにはお人好しばかりだ。
そうは言っても、犯罪がないわけではなく、悪人がいないわけでもない。
至極当然のこととは思えど……何だか虚しい。
ずき、と先刻の小競り合いで負った傷が痛み、顔を顰める。
と、その時。
「おい」
低く、固い声で呼ばれ、倫は顔を上げた。
気配は少し前から気付いていた。
けれど、さも今気がついたかのように、倫は笑みを浮かべて、言う。
「おや、部隊長さんじゃないか」
副官の騎士様もいるね。
そう言って笑う倫の目の前にいるのは二人の騎士。
ディアロ城騎士団雪狼の統率官のルカと、その部下であるフィア。
倫にとってもよく見知った二人だ。
どうかしたの?
そう言って首を傾げる倫を見て、ルカは顔を歪める。
そして、低い声で言った。
「いい加減にしろ」
「んー、何がー?」
「惚けるな」
彼にしては珍しい、強い……怒りのこもった声だ。
倫は不思議そうに首を傾げる。
半分は演技、半分は本音だ。
彼は一体何を怒っているのだろう?
ルビーの瞳に怒りを灯し、ルカは言う。
「死に急ぐような真似をやめろ、って言ってるんだ」
その言葉に倫はゆっくりと瞬く。
金色の瞳が、ほんの一瞬見開かれたのをルカは見逃さない。
しかし、倫はいつも通りに穏やかに笑いながら、肩を竦めた。
「へぇ?そんなつもりはないんだけどな」
その言葉にルカは溜息を吐き出した。
素直に認めるとは最初から思っていなかったが……そう思いながら、言葉を続ける。
「そうとしか見えない。
この前から、お前は騎士の仕事を手伝ってくれているが……どの任務も、一人で行くようなものじゃあないだろ」
そう。
先日から、倫は店の片手間に騎士の任務の手伝いをこなしてくれていた。
表向きは"目的は達成できたけれど今更母国に戻るつもりもないから"と言う理由。
……その裏にあるものを、ルカはまだ本人から聞いてはいないが、ジェイドから聞いている。
彼らの事情の、結末の詳細を知ったらしい医療部隊長が注意深く彼を見てやってほしい、と告げてきたのだ。
……それを聞いて、知っていれば……心配にならないはずがなかった。
何より……倫が選び、赴く任務は悉く危険を伴うもの。
大型の魔獣の討伐や、人に害をなした組織の捕縛。
どれも、複数の騎士で、場合によっては部隊で作戦を立てて臨むような任務だったのだ。
挙句……
まだ詳細のわかっていない、或いは水兎の騎士たちが対策を立てている途中の任務……今彼が"片を付けた"ような任務にも赴いてしまう。
そして、怪我をして帰ってくるのだ。
酷い傷ではない。
医療部隊の騎士が魔術を使うまでもない、程度の軽い傷ばかりだ。
しかし、その頻度は決して軽視出来るものではない。
その行動を、ルカは"死に急いでいる"とみなしていた。
そして、倫自身もその自覚はあるのだろう。
彼の言葉に倫の表情はほんの少し薄くなった。
口元だけに笑みを浮かべて、彼は言う。
「我はキミの部下でもなんでもないんだけどな?」
キミに命じられる理由はない。
そう、尤もらしい言葉をルカに返す。
その言葉に顔を歪めながら、ルカは首を振る。
「それでも、だ」
「俺たちの城で一緒に過ごしている以上、仲間だろう」
ルカの隣で静かに様子を窺っていたフィアが口を開いた。
その表情はいつも通りの冷静なそれに見えて……酷く、悲し気なものだった。
共に過ごした時間はまだ決して長くはないが、倫も彼の性質は理解していた。
一見すれば対人関係に相当ドライなタイプに見えるが、その実情の深い性格なのである。
殊更、仲間とみなした相手に対しては。
故に、現在の倫の様子に心を痛めているのだろう。
……嗚呼、やはりお人好しばかりだ。
そう考えながら、倫はすぅと金の瞳を細めた。
「仲間、ねぇ……」
小さく呟く。
その声に灯っているのは、酷く冷たい嘲笑だった。
「こんな人殺しを、仲間と呼ぶの?騎士様」
そう言いながら、倫は手に握った武器をちらつかせながら、自身が屠った男の骸に視線を投げる。
フィアはその言葉にサファイアの瞳を見開く。
人殺し。
それは、紛うことなき事実だ。
性質として、"犯罪者なのだから殺されて当然だ"と、ディアロ城騎士団の騎士たちは、考えない。
故に倫の行動を全面的に肯定することは出来ない。
……けれど、それでも。
「フィアにあたるな」
唇を戦慄かせるフィアと嗤う倫の間に立ちながら、ルカは言う。
先刻よりさらに険しい顔をした彼は、叱りつけるような声音で言った。
「八つ当たりも大概にしろよ。見苦しい」
その言葉に倫は大きく目を見開いた。
……こんな風に、自分に真向から意見してくる人間は、相当久しぶりだ。
「っ、はは……我に喧嘩を売るんだ」
―― 面白いな。
そう言うが早いか、倫は強く地面を蹴った。
次の瞬間には、ルカの体を地面に組み敷いている。
ハッと息を呑んだフィアは声を上げた。
「ルカ!」
「手ぇ出すな!」
組み敷かれながらルカは叫ぶ。
フィアはその言葉に肩を跳ねさせ、駆け寄ろうとしていた足を止めた。
そんな彼らの様子を見ていた倫はくつくつと笑いながら、言った。
「勝ち目なんてないだろ。魔力のないキミが、我にどうやって勝つんだ?」
「勝てるさ、勝つ気でいるからな!」
そう言うと同時、ルカは倫の目の前で魔力を炸裂させた。
極々僅かな、ルカの魔力は目晦まし程度にしかならない。
しかし、それで十分だった。
"魔術を使うはずがない"と考えていた倫は確かに一瞬怯み、ルカはその隙に体勢をひっくり返す。
「っ……」
先刻負った打撲が痛み、倫は顔を歪める。
倫の上に馬乗りになりながら、ルカは彼の目を見据え、叫ぶように言った。
「死んでも良いって思って戦ってるんだろ、ふざけるなよ!お前が死んだら麗花様はどうなる、どう思う?!」
その言葉に倫は大きく目を見開く。
……そうか、キミは麗花を想ってくれているのか。
「遺していく側は、いつだって勝手だ。置いて行かれる方の身にもなれ!
そもそもお前はそっちの側になったことだってあるんだろうに」
ルカはそう、言葉を続ける。
お前の想いは勝手だ、と。
……おいていかれる辛さはわかっているだろう、と。
倫はその言葉にふ、と表情を変えた。
笑みが消えて、代わりに灯るのは諦観。
「そうする以外にどうしたら良い?」
その言葉に、声に、ルカは少し怯んだ顔をする。
倫はそんな彼を見上げながら、言葉を続けた。
「麗花はどうなる、ってキミは言った。
簡単だよ、我が死ねば、麗花も死ぬ。あの子は、我が魔術で作った……繋ぎとめた存在だ」
その言葉にルカが、フィアが、息を呑む。
……忘れがちではあるが、彼の妹……麗花は、人間ではない。
既に死した存在を、繋ぎ止めた人形のような存在なのだ。
「っ、だったら、猶更」
「あの子は、"生きたい"なんて望まなかったかもしれなかった。それなのに、我が無理矢理繋ぎ止めたんだ」
その言葉にルカはルビーの瞳を見開く。
倫はその表情を見て、再び笑みを浮かべた。
どうやら、ルカもジェイドからおおよそ自分と麗花の"事情"は聞いたらしいな、と思いながら。
「全部、我が間違っていた。我は、あの子に酷い仕打ちをしたんだ。
……それがわかったのに、我はこの手で妹を壊せない。我が死ねば術は解けて、彼女だって解放される」
だからこれが最善だ。
倫はそう言って、微笑んだ。
ともすればこのままルカに殺されることすら望んでいるかのように。
そんな彼の表情にルカは顔を顰める。
そして、叫ぶように言った。
「それが勝手だって言ってんだ馬鹿!彼女はそれを望んだのか?!」
「それすら望めない体にしたのが我だよ。……あの子が我を想うのは、そういう存在として作られているからだ」
妹としての情では、きっとない。
僵尸としての、主人を守ろうとする反応だ。
倫はそう言う。
それは紛れのない事実だから、と。
ルカはその言葉に深々と、溜息を吐き出した。
「お前、本当……自分勝手だな」
「……は?」
ルカの言葉に、倫の喉から低い声が出る。
少し離れたところに居るフィアをも威圧したようで、彼がほんの少し怯んだのが遠めに見てもわかった。
しかしルカは一切怯まず、言葉を続けた。
「またそうやって思い込んで、突き進むのか?
勝手に怯えて、勝手に暴走して、良い迷惑だろうよ!妹の気も知らないで!」
その言葉に倫はぐっと、唇を噛んだ。
勝手?暴走?
妹の気も知らないで?
……お前に、わかるはずがないだろう!
弾けた怒りで、倫は再び体勢をひっくり返した。
ルカの身体を地面に組み敷き、叫ぶように言う。
「煩い!お前に何がわかる!」
自分だって、あんな思い込みをしたくはなかった。
……妹を守りたかった。
妹の行動を阻めるものならば、そうしたかった。
そうできなくて、彼女の想いにも気づけないで、選んだ道は間違っていて。
……だからせめて今度こそは間違わない、そう思っているのに。
「我の想いを、麗花の想いを、知りもしないくせに……わかったような口をきくな!」
咆えるように言いながら、彼はルカの首筋めがけて、自身の武器である暗器を振り下ろそうとした。
フィアが叫ぶのが、遠く聞こえる。
しかし。
振り上げた腕を、誰かが強く掴んだ。
フィアではない。
はっとして振り向いた倫の目に映ったのは……
「っ、麗花……?!」
妹の、顔で。
彼女は強く、倫の腕を掴んでいる。
……なぜ?
そう思いながら、倫は麗花に言う。
「離して」
その言葉に麗花は答えない。
言い方が悪いか。
そう思いながら、倫は息を吸い込む。
「離せ、麗花」
そう、彼は"命じた"。
びくりと肩を跳ねさせた麗花は、しかし首を振った。
「離しません!」
凛とした声が、響いた。
それにルカが、フィアが、……誰よりも、倫が驚いた顔をした。
僵尸が、術者に逆らうことなど、今まで一度もなかった。
そんなことがあるのなら、倫はとっくに自身の傀儡に殺されていただろうから。
……何より、今の彼女の声は、まるで。
―― 生きていた頃の、妹のそれと、同じだ。
茫然としている倫の手首を掴んだまま、麗花はゆるゆると首を振った。
そして、諭すような声音で言葉を紡いだ。
「やめてください、兄様……その方は、敵ではない……そうでしょう?」
そう言いながら、彼女は倫の身体を引っ張った。
呆けている彼の身体はあっさりと後ろに倒れ、ルカからどいた。
体を起こすルカではなく、自分を諫めるようにその身を引っ張った妹を見つめ、倫は何度も瞬いた。
「な……」
何故、どうして。
そう問いかける彼を困ったように見つめる麗花は言った。
「どうか、もう傷つかないで」
その言葉は、声は、切実で。
……まるで、人のような……"本物"のような声で。
「それが、答えなんじゃないか」
体を起こしたルカが、言葉を紡ぐ。
倫と、彼の後ろの妹を見ながら。
「お前の妹は、お前を恨んでなんていない。……お前の傍にいるのは、お前を守ろうとするのは、その子の意思じゃないのか」
違うのか。
そう、ルカは問う。
倫の手から、彼の武器が転げ落ちた。
「……にいさま」
先刻とは少し違う、聞き慣れた声が、呼ぶ。
そしてそのまま、後ろからぎゅうと抱きしめられた。
ひんやりとした、体温のない体。
「りーふぁは、にいさまのことが、たいせつです。このおもいは、つくりものじゃ、ありません。そばにいさせては、くれませんか」
子供のような幼い声。
それは先程聞いた、人と聞き違うようなそれとは違う。
……けれど、そこに灯る"感情"は……
彼女の言葉に応えようと、倫が体の向きを変えると同時。
ぐらり、と彼女の身体が傾いだ。
息を呑み、倫はその体を抱きとめる。
「っ、麗花!?」
焦ったように名を呼んで、彼女の心臓部である胸元の宝玉に目をやった。
僅かに曇り、色が褪せている。
しかし、ひびが入ったり、割れたりしている様子はない。
目を閉じ、動かないが……それは単に魔力切れを起こした時と同じ挙動だ。
ほ、と息を吐いた倫はそっと彼女を抱き上げて、つぶやいた。
「……無茶をして」
冷静に考えれば、当然だ。
彼女には"城の部屋で待っていろ"と命じていた。
その命令にも背き、"離せ"と言う命令にも背き。
元々歩けない体を動かすためにも魔力を使う。
……こうなるのが、当然だ。
壊れなくて良かったと、そう思う他ない。
「倫。麗花様は、本当にお前のことを大切に思っていると思う」
フィアが言う。
それは否定のできない事実だ、と。
「これでも、お前の妹の気持ちは、お前が作ったものだと、そう思うのか?」
静かな声で、ルカは問う。
倫はその問いに答えず、妹に視線を向けた。
体温を持たない体。
無理矢理に繋ぎ止められた魄の器。
……自由の利かない体で駆けつけて見せた。
兄の幸福を祈った。
それは、彼女が倫に作られた僵尸だからではなく。
「……我が兄だから、麗花が妹だからだって……そう、思って良いのかな……なぁ、麗花」
"眠って"いる妹の身体を抱きしめ、倫は小さく呟く。
その頬を一筋、透明の雫が伝い落ちていった。
―― その想いは模造品ではなく… ――
(キミの想いそのものだと、そう思っても良いのかなぁ)
(彼を思う必死さが、想いの籠った声が作りものだなんてことは、ありえない)