手を握ったのは、何時だった?
ほろほろと落ちる雪の中、私は漠然と浮かび上がった私への問いかけを最後に、ぶつりと視界を閉じた。
……死に化粧……
話題書き…:突発的文章。
next.追記
私が誰で。
何処にいて、何処で生まれ、誰のもとに堕とされ、生きていたのか。
それは今となってはもう、思い出せずにいる。
ちっぽけな事で怒り、傷み、悔しさに壁に頭を自ら打ちつけたことが、何度かあったように思う。
これもまた、不確かな事ではあるけれど。
その中でもひとつだけ大きな忘れものがあったのを、私は覚えている。
「死んじゃえばいいよ」
いつだったか大切だと思ったその男は、確かに初めて会ったとき、開口一番にそう、笑いかけてきた。
「……。は?」
「え? 死にたいんじゃないんですか?」
場所は何処かの大きな建物の、広い屋上。
私はそこで、飛び降り防止柵に寄り掛かるようにして立ち、空を見上げていた。
そこへだ。男はやってきた。
胡散臭い男だった。
とても人当たりの良さそうな顔で、面構えから察するに、年の割には人懐っこそうな印象だった。
だから、余計に胡散臭いと思ったし、突然男が吐き出した毒に、私は眉を力ませたのだ。
男は空を仰ぎ、続けた。
「貴女がいくらあんなに高いところを見上げても、貴女に見合う低さに、空は落ちてきてはくれませんよ」
「……。」
「貴女には、地べたがお似合いです」
最初の最初は、とても男の話は不愉快だった。
だから不思議だった。
気づけば私はこう答えていたから。
「――ああ。そう思う」
男はずっと一緒にいた。
その建物の屋上で、白衣の人々が真っ白なシーツを乾かすのを眺めながら。
空を見上げながら。
眼下に広がるビルの海を見下ろしながら。
拾い上げる思い出の断片はどれも朧げでも、それでもある日を境にやはり、男がいる。
「死んでいいよ」
男が実在したかも本当のところ、私にもわからなかった。
けれど迷えばそんな声が、振り返ったところに落ちている。
男はそうして思い出の中の私と、思い出の外の私を、決まって幸せそうな顔をして笑うのだ。
とある断片にはこうあった。
「君は君の仕事を置いていけばいい。俺も全部置いていくから」
これは、拾い上げる度に胸が苦しくなる。
同時に私の手のひらに、何か悍ましい汚れが絡み、肌から血管へ、血管から全身へ広がり、私の全てが奪い尽くされてしまうような感覚が襲いかかってくるのだ。
解っている。
これは、男に対してのものではない。
全く関係のない、別のものに関する事で、私は汚れて堕ちたのだ。
その都度男は笑って口にする。
「死ねばいいよ」と口にする。
私の他の断片がいま、しゃらしゃらと綺麗な音を立てて塵になった。
ああ……もう、なくなってしまったのだ。
わたしもかれも、ぜんぶ。
終わり際に掴み損ねた思い出には、彼のさいごがあった。
ああ、終ぞ見なかった。
彼は最後まで彼だったのだ。
――なんだよ、また独りだよ。
地面に近い場所。
抱き起こされるような体勢だった私の腕に、私を支える彼の手が、とても痛くて。
呼吸もままならずに、何も言えずにいる私はそのとき、息を感じるほど近くで、彼がそう笑った気がした。
その顔はどこまでも澄んでいて。
まるで空のようで。
私はその時それを見上げていた。
記憶をたぐり寄せるように、私は私の手のひらを握り、次に私の頬にあてる。
どれも思い描いた感覚のようにはいかなくて、少々の物足りなさを感じたものの、諦めはついていた。
「さよなら『――』。」
きっとこれで、踏み出すのは最後。
私は、とある真っ白な世界の、とある真っ白な場所で、そこへ来て初めて微笑むと、ざらりと砂になって消えた。